上井草スポーツセンターというカオス

casa_kyojin2012-05-02


東京・杉並、上井草スポーツセンター前の道路(画像)
対向二車線で、両側の歩道がゆうにとれるだけの道幅を一方通行とし、たっぷりとした左右の歩道の間に、杭やカラー舗装で区分された車道が、クネクネと蛇行して設置されている。

この蛇行による、クルマの通行速度の抑制を、歩行者とクルマの交通事故対策として評価する意見がある。

──しかしそれは、大きな誤りだ。
この道路は、むしろ、安全に欠かせない要素の不備という、大きな問題を抱えている。


歩行者を交通事故から守ろうとするなら、まず第一義にクルマと歩行者の交通モードを分離させることが必要だ。
例えば歩道、縁石やガードレールといった存在がその役目を担う。

しかしこの道路には、間遠に設置された杭があるばかりで、交通モードの分離という観点からは、歩行者はちっとも守られてはいない。

実際、クルマの重量による運動エネルギーは、低速でも歩行者に大きなダメージを与えうる。

20年前──僕は、歩道も何もない道路の路側帯で軽自動車にひき逃げされた。
救急車で搬送され、断裂した靭帯は、再建手術が必要と診断された。
今も神経痛が残るこの事故で、加害者の車は時速30kmも出していなかった。

あれが普通車だったら、トラックだったら……と思うとゾッとする。
しかし、せめて縁石があったら、何も起こらなかったかもしれない。

つまり、道路のフェイルセーフとは、そういうことだ。

もし、この道で、歩行者の集団がクルマになぎ倒される事故が起こったら、何を批判するべきか?
無免許か、癲癇か、居眠りか?
交通モードの分離とは、そうしたドライバーの過失があった際にも、ガードレールや段差、縁石といった存在が、フールプルーフとして機能するということだ。


では、この道路にはなぜ縁石やガードレールが設置されていないのだろう。
蛇行を強いられたクルマの接触事故で、管理責任を問われることから逃げている? もしそうなら、本末転倒だ。

──大丈夫、クルマは蛇行させて速度を落とさせていますから。
しかし、杭の間隔の状況は、歩行者を充分守りきれるものではない
さらに「教習所を思い出す」と言う人もいるカーブの連続も問題だ。

例えば、路側帯をカラー舗装する際に、車道を見かけ上では蛇行しているように錯覚させ、心理的効果としてのスピード抑制を狙う手法がある。
しかしこの道路では、それなりのステアリング操作が必要な角が連続し、フールプルーフの考え方には逆行している。

この道を評価する向きからは「(クルマが通る速度として)30キロ以上は難しい」という声もあるが、現実には、制限速度の30km/hどころか、40km/h以上で通るクルマも珍しくない。
中には、ジムカーナスラロームのように、前輪を交互に沈み込ませ“華麗に”クリアしていくクルマもある。


また、間遠な杭=車道と歩道の区分が曖昧なことは、歩行者がどこからでも横断を始めたり、横一列に広がって歩道からはみ出す、といったマナーの悪さも助長している。

そのような状況で、無為な蛇行を強いられたクルマが、歩行者、自転車と同一平面上で混在する交通モードは、むしろ危険といえるだろう。

──しかし実際に、これまで大きな事故は起きていないではないか。
といった指摘は無意味だ。
群馬・藤岡の関越自動車道の防音壁でも、これまでああいった事故は起こっていなかった。


しかし、歩道やガードレールを設置すれば万事丸く収まるかというと、そう単純な問題でもない。

たしかに、この現状に段差のある歩道とガードレールを加えれば、強固な安全対策になる。
しかし、この蛇行を敬遠するドライバーが、上井草駅西側の踏切に寄りつこうとしない、という現状は、街づくりの視点からはマイナスとなっている。
地域コミュニティにとって、道路は血管のようなものだ。血流のない組織は、やがて壊死してしまう。


交通モードの分離、クルマと歩行者、自転車の共存、街づくり──こうした要素を織り込み、改善案を考えてみる──

南側のアプローチで、車道を一度、緩くクランクさせ、ドライバーに注意をうながす。
西(スポーツセンター)側の歩道は広くとり、東側の歩道の幅は最低限に留める。
両側の歩道と車道は、クランク以外はまっすぐ。

北側T字路に横断歩道を設置。車道をここでも緩くクランクさせ、歩道の幅を左右で入れ替え。
広い歩道を東(駅)側に切り替え、西側を細くする。

車道と歩道の分離は、クランクや横断歩道などの要所はガードレールや杭で補強するが、大半は中低木を織り交ぜた植栽で行う。

クルマの速度抑制は、路面のグラフィックや、街路樹のちょっとした張り出しなどによる視覚的、心理的効果を主とする。
現状のようにステアリング操作が必要な蛇行や、バンプのような物理的障害で、ドライバーとクルマに無用の圧迫を加えることは避ける。

歩道には、植え込みなどを互い違いにゆったりと設置。
むしろ歩行者こそ蛇行モード=全幅を使いきっての直進ができない状態になってもらい、横一列に広がろうとすることや、自転車の乱暴な走行を緩やかに防ぐ。
車道との間に生け垣状に配置された植栽は、いつでもどこでも横断を始める歩行者や、縦横無尽に車道に飛び出そうとする自転車を抑制する。

人と自動車をどちらもゆったり通行させることを、なるべく高いレベルで実現させたい。
現状の施策は、一方的で無用の緊張をクルマに強いているだけだ。


東京・杉並、上井草スポーツセンター前の道路の蛇行、クルマの速度抑制を“安全”と評価している人は、夕方〜夜の、駅へと歩く人が多い時間帯に、ご自分でこの道を運転してみてほしい──それも、雨の日に。

横一列に広がり車道に溢れだす傘の波。
一方通行のクルマに向かい、まっすぐ突進してくる片手運転で傘をさした自転車。

抑制するべきは、むしろこのカオスの方だろう。


安全のためには交通モードの分離が必要。
そして、地域コミュニティのためには、クルマと歩行者、自転車の共存が不可欠だ。

現状のような、上っ面だけの“安全”は、この二つの要素を同時にスポイルしている部分がある。

双方をもっと高いバランスで両立できるよう、挑戦できることはまだまだあると思う。


■渡辺とおる「上井草アニメーターズ」(1)

駅前にガンダムのブロンズ像が立つ、サンライズのお膝元の上井草。

ケロロ軍曹」「男子高校生の日常」と、“聖地”としての地盤を気づいてきた杉並区上井草が、とうとう舞台としてだけでなく、タイトルにも進出。

街を歩くと一見してアニメータな人たちを多く見かけるし、商店街でカレーを食べている時に、現場スタッフたちの、監督やテレビ局に対しての“リアルな悪口”を聞くことができるたりするのも、お土地柄?

あなたの魂、おいくらですか?

casa_kyojin2012-04-25


ブログで新刊コミックをレビューするのなら「コンスタントに書く」「的確にホメる」ことが大事だ。
すると、コミック系、レビュー系のまとめブログにリンクされる機会が増える。
作者本人や、担当編集のエゴサーチに捕捉され、Twitterで言及されるチャンスがあるかもしれない。
となると当然アクセスは増えるし、アフィリエイトからの収入もアップ──なんて仕組みで商売をしている半素人さんは、本当に多い。

もちろんそれは、コミックに限らず、映画でも、ワインでも、なんでもだ。

だけど、そんなふうに商業メディアとおなじようなことをやって──人は楽しいのだろうか。


書けと言われたら注文通りのことを書くのがプロ、商売だけど、素人さんがそこまでできるモチベーションって何?
もっとも、それだけアフィリエイト収入が大きい、ということでもあるのだろう。

素人さんがステルスマーケティング(=ステマ)としての提灯ブログを書くとき、アフィリエイトでどのくらいの金額が入ってくるなら、ステマ職人としてのモチベーションを維持できるのだろう。

ある半素人さんの漫画レビューのブログ。アクセス数は、僕のブログのざっと10倍はある。
地雷(アフィリエイト)へのリンクもたくさん張ってある。
──アクセスに比例して、収入も10倍! というなら……やる人は多いかもね。

あるコミックスは、一冊あたりの印税より、アフィリエイトで一冊売った人の収入の方が大きい──なんて話を聞いたことがある。
アフィリエイトって、ある意味そこまで大きな商売になっちゃってるわけです。
でも、そのお金を誰が出してる(搾取されてる)のかってことを、ちょっと考えてみてほしい。

感じたことを、心のままに書きました。共感してくれたり、FacebookTwitterで拡散してくれてありがとう!──と、心から言えて、それが小さくない収入になるというなら、確かに幸せだろう。
しかし、そこに小遣い稼ぎどころではない桁の金額が動くとなれば、世の中そんなに甘くはない。

そこまで言うならアンタもやりなさいよ。プロなんでしょ? ホメてアクセス稼いで、アフィリエイトで稼げばいいじゃない──ごもっとも。
酷評してるブログからリンクに飛んで、買い物する人なんて、いるわけがない。
でも、名前を出して文章を書くプライドっていうのは、そんな薄っぺらいものじゃありません。

あとね、素直にそのままホメるのって、なんだか恥ずかしいんだよ。
それに「クライマックスでホロっときました」なんてオッサンが書いても面白くないでしょう。そんなの、誰も喜ばないですよ。

街外れの狂人には、王様は裸だ! なんて憎まれ口を叩くくらいが関の山。
新作映画で素直に感動しても、なかなかそうとは言えないものなんだよね────おしまい。


■ももへの手紙(角川文庫)

雅号の恭仁亭は、つまり街外れの狂人、ということ。


アフィリエイトのビジネスモデルとしての実例を少しばかり紹介すると──僕もその道のプロではないので、ハッキリしたことは言えないけれど、ホメるだけで週一くらいの更新頻度でも、軽く家賃分くらいは稼げると思います(このくらいにボカしとくけど、地方のワンルームじゃないです)

もっと熱心に取り組むとして──百万はさすがにすごいなあと思うけれど、一日中HTMLと格闘する覚悟があるなら、数十万は充分可能でしょう。

アイバンラーメン(芦花公園)★☆☆☆☆

casa_kyojin2012-04-17


アイバンラーメンを初めて知ったのは、2007年。
ニューヨーク在住のアメリカ人に「え、知らないの?」なんて言われた時のことだ。

その後程なく、テレビのバラエティ番組に、アイバンと彼のラーメンが登場する。
「デュラムセモリナを使うなら、もうちょっと水を多くしたほうがいいんじゃないかな」
「あ、そう。アリガト」
支那そばやの佐野実を知ってか知らずか、物怖じしない様子のアイバンにも好感を持った。


そして、ついに芦花公園の店を初訪問。
少しの行列。選んだのは塩ラーメン。

──これはなんだ、と思った。

鶏ベースの澄んだスープは、クリアさと裏腹に、ラーメンとして真っ当に、充分に、こってりとしている。
これが無化調なのだから、どれほどの仕事が為されていることか。

ただ、ラーメンという座標軸を切った時のボリュームゾーンと、その周辺には無い味わいだとも思った。
正直、このテイストを好まない人も少なくないだろう。

アイバンのラーメン、その吟味された素材、上質な仕事が、評価されるべきなのは当然だ。
しかし、その創意は、凡百のラーメンの居場所をヒョイと超えてしまっている。

いわば“ラーメン以上”とも言える仕事が、映画「タンポポ」に憧れたアメリカ人によって為されたことに、大きな敬意を払いたい。


そして、10日ほど経った平日、しょうゆラーメンを目指して夜の行列(今度は少し長かった)に並んだ。
数人後に並んだ人が「ゴメンナサイ、今日はここまで」とアイバンその人に言われてしまうというギリギリのタイミングに一安心。

しょうゆラーメンは、塩よりも“ラーメン的”な旨味、深みといった味わいがわかりやすかった。
かといって、こちらの方が美味しいというわけではない。
しょうゆと塩のキャラクターの違いの鮮烈さもまた、アイバンのラーメンの凄さだった。

スープ切れで前倒しの閉店となり、ちょっとゆったりした時間の中、アイスクリームの風味は、ぶどうジュース──なんて話を教えてくれたアイバン。
多分、本当は話好きな人なのだろう。
しかし、既に行列が当たり前になっており、そういうタイミングはなかなか期待できなくなっていたけれど。


やがて、店の二階にあった製麺機は、並んだ建物の一階部分に移され、スープの設備も増強された(アイバンは何処だろう、と思ったら二階でアイスクリームを作っていた──なんてことも無くなった)

そうした拡張だけでなく、スープと麺の味わいがどんどん進化していったこともまた、凄い。
強いていうなら、ハーモニーに欠ける部分があった塩ラーメンの味わいも、時とともにどんどんまとまりを見せていった。

カップラーメンが発売されたこともある。
そのときは「インスタントなんて出しちゃって、とか悪口言う人もいるけど?」「でもね、バジェットに制限がある仕事をするのは楽しいよ」なんて話を聞かせてくれたアイバン。

──僕は、彼のラーメンが大好きだった。


そして、2010年9月、経堂に二軒目の店「アイバンラーメンplus」がオープン。
プレオープンに駆けつけたが、特に平打ち麺に関しては「やっちゃったな」というのが正直な感想だった。

新店の商品は「僕流の新しいラーメン」とアイバンその人が言うだけあって、これまで以上に個性的なのだろうとは想像していた。
しかし、覇気に欠けるとでもいうべきこの麺の締りの無さは、ラーメンとしてはもちろん、新しい料理としても充分な仕事になっていなかった(もちろん、製麺での加水や、茹で時間のミスというわけではない)

でもこれまで、アイバンの凄さは、個性よりも“日々進化すること”と実感してきた。
新店のメニューも、これから改良されていくのだろうと、素直に期待していたものだ。

とはいえ、残念だったのは事実。
無性に「オリジナル」が食べたくなってしまい、間をおかず、芦花公園に出かけることになった。

──そしてそれ以来、僕はアイバンのラーメンを食べていない。


アイバンは一人しかいない。
彼が不在だったとしても、当然のことだ。

そして、芦花公園のしょうゆラーメンは、麺は茹ですぎで、温度が今ひとつ足りないスープへの絡ませ方はおざなり。
穂先メンマがぐしゃっとのせられた丼の中の景色は、なんとも残念なものだった。

店が増えても、食券を買うシステムになってもいい。NYに逆上陸してもいい。
でも、店主の不在イコール不充分な商品となってしまう店なら、そうした拡大はするべきではなかっただろう。


アイバンの仕事、日々の研鑽、新しい発想──本当に凄いと思う。
だからこそ、人を育てることにも、もう少し気を配って欲しかった。

近所を通りかかって、カウンターの中にアイバンを見つけたら、立ち寄ることもできるかもしれない。
でも、のびたラーメンが出てくるラーメン屋に、わざわざ足を伸ばすことは難しい。


──さよなら、アイバン。僕は、あなたのラーメンが本当に好きでした。


■アイバンのラ-メン

2008年暮れに出版された、アイバンの著書。
彼のラーメンの秘密、工夫がサラリと語られていることもまた、凄い。
誰もが真似できそうだけれど、実際にはできない──ということなのだから。

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押し売りプライバシー

casa_kyojin2012-04-08


Facebookもユーザーが増え、どんどん一般的になってきたけれど、それに連れてユーザーの民度も、ぐんぐん下がってきているような気がする。

もっとも、人が多くなるというのは、こういうことでもあるのだろう。

具体的に言うと、FBの「いいね!」で拡散されてくる写真を見て、戸惑うことが増えた。
ウォールに書き込んだときには“戸惑う”とオブラートに包んだ表現を使ったけれど、ハッキリ言ってしまえば、不愉快な写真をアップする人が増えたし、それを無造作に「いいね!」で拡散する人が増えた──ということ。


卒業、入学、出産、結婚……もちろんおめでたいことだし、それが誰のことであれ、人としてそうしたハレの出来事を祝う気持ちは当然ある。

でも、だからといって、なんでも手放しで祝えるというものでもない。

例えば入学式のスナップ。
その投稿には、子供の顔や名前、年齢、学校名、あるいは最寄り駅といった一級の個人情報が満載だったりする。
プライバシーのダダ漏れは、傍で見ていても居心地の悪いものだ。

また、新生児の写真というのもまた、なんとも悩ましい。
心ある親なら、顔色等々が落ち着いてから、かわいく撮った写真をアップしたりするものだ。
でも、正真正銘出産直後の、鬱血してたり、まだ色々くっついてるような写真を全体公開?

それどころか、保育器やNICUに入れられているような、状態が充分ではない赤ちゃんの写真をアップする親までいる。

──そうした写真が「いいね!」で拡散されてくるのは、正直困る。


そもそも「友達の友達」なんてものは、言わば単なる他人でしかない。
見も知らない人のプライバシーが、そんなふうに押し付けられてしまうのは、筋違いだろう。

まして、状態が万全ではない新生児の写真を見せられて、こちらまで不安にさせられてしまうのでは、やりきれない。

かといって、入学式の校門脇で撮った写真を、子供の目に犯罪者のような目線を入れて全体公開するのも、本末転倒だ。



なんと心の狭いことを──と思っている人もいると思う。

しかし、そうしたプライベートショットをわざわざ公開するというのなら、そこには、それなりの意識が伴っているのが道理だと思う。

人様に見せる、という気遣いが無い写真を公開するのは、単なる自己満足だ。
そこには「見せたい」という上から目線はあっても、「見て欲しい」「何かを共有したい」といったサービス精神というか、コミットメントは感じにくい。

「子供の晴れ姿を世界中に見せたい」
「妻と食事した店や料理を披露したい」

──といった気持ちはわかる。

でも、それを世界中に公開にするというのなら、もうちょっと気持ちのこもった写真にできないのかな。


写真のウデや、カメラの良し悪しの話をしてるわけじゃないです。

お父さん、子供の入学式の写真がそれでいいの?
校門の横でブスーっとしてる写真が世界中に公開されてるって知ったら、僕が子供だったら暴れるよ?

ひさしぶりに夫婦でレストランで食事した記念なのはわかるけど……それなら料理の写真はもっと美味しそうに撮ろうよ。

子供をかわいく撮ること、料理を美味しそうに撮ることって、機材やテクニックより何より、それこそ「愛」だと思うんだけどなあ。

そういう気配りもなく、楽しくも面白くもない写真が、プライバシーをダダ漏れにしてる──なんて状況を他所様に押し付けるのは、やっぱり無神経が過ぎると思う。



何しろ、子供のトイレトレーニングの写真、それもシミュレーションじゃなくて、リアルにトイレ中の写真を全体公開でアップしたお母さんまでいるんだもの。

それ、あなたにとっては可愛いわが子の成長記録かもしれないけれど、他人から見たらそんなの──チャイルドポルノ、それもスカトロ!


……もうこうなると、プライバシーとかリテラシーの話じゃなくて、家の中と外の区別の話でしょう。



もう一度言っておくけど──

子供のプライバシー、血塗れの赤ん坊、そしてウンコ、なんて類の写真を「全体公開」してるお父さん、お母さん。
それ、迷惑ですから。



ここのところ、ダウンなことが続きすぎちゃいました。

個人情報やスプラッター、スカトロ──といった類の画像をアップして、それを「友達の友達」経由で押し付けてきた人は、これまで、ブロックで対応してきました。

でも、「友達」がそんな写真をアップしたときに、無造作に「いいね!」と拡散してる人たちも……ちょっとどうなのかな。

そういうのが、このところ多すぎました。
これ以上続くようであれば、色々考えます。

あと、ナルシスティックなセルフポートレートや、身体のパーツのアップばかりアップする人にも困った。

プロのモデルや芸能人ならともかく、素人さんが日常コンディションで、鏡撮りの自画像や、自分ネイルの写真を来る日も来る日もアップして……って人は、さすがにフィード購読を止めました。



■オーダーネイルチップ(スワロフスキー&ジェルコート)

ネイルの写真もプロのお店だと、こんな感じ。

でも、しろーとさんの写メとかだと、たしかにサロンで施術してもらったばかりのネイルはキレイ。
でも、指毛はそのまま──なんてのがFBにそのままアップされていることも、結構ある。

……もうちょっと、自分にも気を遣おうよ。

キャロット ★★☆☆☆(西荻窪)

casa_kyojin2012-04-04


とにかく盛りの良いステーキ屋さん。
サービスステーキやハンバーグのコストパフォーマンスに、満足、大満足。

季節物のカキフライも、いいの? ってくらいの盛りの良さなんだから、これはもう文句なし。


ただ、ふらっと出かけて行って、席のあくタイミングを見計らうのに近所の古本屋を覗いたりとか、ちょっと行列するくらいならともかく、わざわざ電車に乗ってきて、暑さ寒さの中何十分も並んだりするのは、疑問。

美味しい──といってもコストパフォーマンス的な評価の割合が高いものだし、肉にしても副菜にしても、素材がどうこうっていうようなものではない。

お腹いっぱいなるまでガツンと食べられる近所のステーキ屋──としては大満足だけれど、かのミシュランガイドが「足を伸ばす価値」によって星をつけていることに敬意を払えば、この店に対して★4、★5をつけるのは難しい。

西荻窪には、そういう類の店が少なくないのかもしれない。

例えば、山本益博の大絶賛で有名になり“聖地巡礼”の行列ができる「坂本屋」にしても、近所のふつーのカツ丼をメインに食べログ評価が3点台後半になってしまうのだから、それこそマスヒロさんの「ブランド効果」なのかな、とも思ってしまう。

あるいは、何よりもこの「西荻」自体がひとつのブランドになっている、ということなのだろう。


ご近所で、気軽に腹いっぱいステーキを食べられる店として、文句なしの★3つを。

ただし──ステーキの上のレモン、そしてその上にのせられたのが、パセリを刻みこんで整形されたマーガリンだったのが、残念。

食材の不安に対して、★をひとつ減らします。


■野田琺瑯 バターケース450g用

マーガリンというものに、この何十年も縁のない我が家。
最近は1ポンドサイズのバターを使うのがデフォルトになっていたので、ケースに困っていたのだけれど、やっと見つけました!

……こんどは気の利いたバターナイフを探さなきゃ。

「3月のライオン」第7巻 Amazonレビューへのコメント

ぺいん:2012/05/03 0:22:28:JST

「青年誌」だから「少女漫画的展開」をすべきでない、という部分には反感を覚えます。
青年誌購買層にも、少女漫画的展開を好む部分があっても構わないでしょう。
自ら「サバイバー」であると名乗るあなたが、「青年層ならシビア展開のみやるべき」とおっしゃるのは、固定観念(男は強く雄々しくあれ、女は慎ましく美しくあれ的な)によるレッテル張りで他者を批判するという、まさしくイジメの原因となる歪んだ思考に他ならない気がします。

  • -


コメントありがとうございました。

たしかに私は、将棋漫画を青年誌で描こうというのであれば、もっとシビアな世界を見せて欲しい。これからの展開が、リアルな、ハードなものになることを期待する──という見地から「少女漫画的展開を続けたいなら『花とゆめ』に移籍させるべき」としました。
その意図するところは、名人との対局以降のハードな展開への期待です。

しかし「『青年誌』だから『少女漫画的展開』をすべきでない」(引用)といった論の展開はしていません。

また「青年層(ママ)ならシビア展開のみやるべき」(同)との“べき論”は、どこから出てきたのでしょうか。

そして「固定観念によるレッテル張り」(同)と、当方が全く持ち出していないジェンダー論へと話が飛躍していることは、マジシャンズ・チョイスとしての論理のすり替えです。

私の批判は“レッテル張り(ママ)”(同)で“イジメの原因となる歪んだ思考”(同)とのことですが、相手が言ってもいないことを挙げ連ね、存在しない言質で揚げ足をとるような論のほうが、よほどイジメ的でしょう。
:2012/05/03 2:03:59:JST

  • -


ぺいん:2012/05/12 9:33:07:JST

青年誌で連載されている作品に対して、「少女漫画的展開を続けたいなら『花とゆめ』に移籍させるべき」
と主張することと、
「青年誌だから少女漫画的展開をすべきではない」の主張することの、意味の違いが判りません。同じことではないのですか?

ジェンダー論は、固定観念の具体例(的な)として出しただけです。

  • -

> 意味の違いが判りません。同じことではないのですか?

意味の違い以前に、私は「青年誌だから少女漫画的展開をすべきではない」とは言っていません。
ここで並列に論じられること自体が議論のすり替えです。

また、再度繰り返しますが、私の結論はあくまで「これからの展開が、リアルな、ハードなものになることを期待する」というものです。
これは、ありもしない言質の“引用”や、論の過程が結論であるかのような決め付けによる中傷です。

固定観念の具体例(的な)(ママ)」として、強いてジェンダーを持ちだす藁人形論法もそうですが、そうした考え方こそ、おっしゃるところの“イジメの原因となる歪んだ思考”でしょう。

反論されるのはかまいませんし、こちらの疑問に答えないこともかまいません。
しかし、フォーシングによる中傷が延々と繰り返されていることを、とても残念に思います。
:2012/05/12 16:23:43:JST

こちらが全く書いてないことを材料に、言質にして、揚げ足を取り、“歪んだ思考”と指弾してくるのだから──羽海野チカ信者は、本当に怖い。

橋下徹の支持者、反原発な人、羽海野チカのファン──この三者の中にしばしば見られる狂信者には、ある種の共通点があるように思っている。

ご本尊への絶賛礼賛は、キス&ハグでもしそうな勢いで熱烈歓迎!
しかし、あらゆる批判を決して許さない──といった全体主義的頑迷さだ。

地方分権賛成や再稼働反対、羽海野てんてーのココが好き──といった各論*1だけでは、決して許してくれない。

そして、自分たちの信心を“守る”ためなら、何をやっても“愛国無罪”──という“正義”が、誹謗中傷なんでもありの無手勝流で、他者を攻撃することをためらわせない。

小林よしのり橋下徹の批判で、

「ツイッターの中でも『マンセー!橋下同志!橋下将軍!』と媚びるような連中が橋下を甘やかしているらしいが、そういう連中はカス」

としたのは、言い得て妙だった。

そして、そうした橋下同志マンセー放射脳感動乞食な人たちは、自分たちが“マイノリティ”“弱者”であり、それ故の正義を持っている──と信じてしまいがちなことにも、本当に困ってしまう。


こうなってくるとやはり、宗教とか全体主義国家に似ていると、増々思えてきてしまうのだけれど……なんとも悩ましいものだ。

*1:これは僕自身の価値観でもあるけれど

羽海野チカ「3月のライオン」第7巻 ★★☆☆☆

casa_kyojin2012-04-02


二階堂がピンで表紙という、およそ青年誌コミックらしくない6巻から一転、カバー絵だけでなく、内容も方向性の整理が進み、よい展開になってきたな、というのが第一印象だった。

しかし、冒頭の山崎のエピソードがいけない。

ここのところこの作品は、コミックスの発売にあわせ、その続きが雑誌最新号に──というセールスを行なっている。
そうした営業手法としての“大人の事情”自体をどうこう言うつもりはない。

ただ、この7巻に関して言えば、明らかに冒頭の山崎のエピソードが浮いてしまっている。

その後のエピソードが、いじめの問題、新人王となった桐山、宗谷名人──といった要素を渾然一体と絡み合わせ、絶妙なハーモニーを奏でている一方、山崎と二階堂だけが冒頭だけで切り捨てられてしまっているのだ。

もっとも、連載終了後にコミックスを大人買いするなりし、まとめ読みした時にはそんなことは気にならないかもしれない。

ただ、この一冊だけを考えた時、山崎と、そしてまるでカメオ出演のような二階堂は、なんとも座りが悪いポジションに押し込められてしまっているように見えた。


さて、この7巻で一応の解決を見た、いじめ問題の問題だが、ひなが最後まで戦い続けたことが事態収拾のカギになった、という展開は心震えるものだった。

自分がいじめのサバイバーである立場から言うが、こうした問題に周囲のサポートがあれかし、というのは希望にしても、結局最後は自分自身に帰する問題、というのが真理だろう。

とはいえ──ひなをあんなにも救いたがっていた桐山は、主人公は何をしていたのだろうか。

彼はたしかに、かつては校庭の隅の植え込みに座り込んでいた少年だったかもしれない。
しかし、今やプロ棋士。勝負の世界で日々命のやり取りをしているファイターだ。

作者は、そんな彼を右往左往させるだけだった。
そして、自分の体たらくに自責の念を持つ主人公を、ヒロインというレッセフェールに救済させるのだ。

はたして羽海野チカは、物語の主人公という存在を、一体なんだと思っているのだろうか。


羽海野の前作「ハチミツとクローバー」の主人公は、タイトルとラストのエピソードが示すように、じつは竹本だった。
しかし、こうして“じつは”と書けるくらいに、彼の存在は、物語の進行上で傍流、ともすれば希薄だった印象がある。

この「3月のライオン」は群像劇である「ハチクロ」と違い、プロ棋士が主人公である、という明確なテーゼを掲げている以上、桐山が主人公であるという事実に揺らぎはない。
しかし、いじめのエピソードの展開の中で、彼は主人公として、期待される役割を充分に果たしていただろうか。

物語の中で彼が見せたナイーブさは、学園モノとしてなら、それも少女漫画としてなら、許容される範囲というか、むしろ求められるべきロールだったとも思う。

しかし、これは「ヤングアニマル」に掲載されている将棋漫画ではないのか?

作り手側が、これ以上少女漫画的展開を続けたい、続けるべきと考えているというのであれば、そして、ファンもそれを望んでいるというのであれば、担当の「T田さん」は、自身の人事異動に合わせ、この作品を「花とゆめ」に移籍させるべきだっただろう。
もちろん、そのへんもまた、“大人の事情”が色々とあるのだろうけれど。


ともあれ、作者の羽海野のTwitterアカウントをフォローしているファン層や、アマゾンのレビューに明らかなように、この作品には言わば“感動乞食”といったような人たちが大量に押し寄せている。

そうしたファンの言動は、例えば映画の試写会の後でカメラを向けられ、求められるままに「泣いちゃいました!」と無防備なコメントをするような人や、作品の本質を見ようともしないで“泣ける映画”と決めてかかるような人たち(ex.映画「ニュー・シネマ・パラダイス」)のナイーブさと重なる。

少女漫画だというのであれば、そうしたセンチメンタリズムもいいだろう。

しかし、これだけ、時間やコストも、監修者も贅沢に使い、将棋漫画を(それも青年誌で)描こうというのであれば、もっとシビアな世界を見せて欲しい。

桐山がついに、当代の名人と直接対決することになった今、これからの展開が、リアルな、ハードなものになることを期待してやまない。

  • -

【後日追記】

この評が、現在Amazonのカスタマーレビューの「有用性」ランキングで、断トツの最下位なのはむしろ痛快だ。

ある種の作品に“泣きたがり”な人たちが群がってきているからといって、それが、必ずしも“お涙頂戴”的な安物だとは限らない。

しかし、そうした“感動乞食”には、あたかも物語の上澄みだけをすくって、安っぽく涙に変換するフィルターが装備されているかのようだ。
作品の本質やポイントを絶妙にズラした解釈は、時に芸術的とまで思えたりする。

本作でもいいし、前述の「ニュー・シネマ・パラダイス」でもいい。
多くの“感動乞食”が自分の涙腺を刺激“させている”ポイントは、どちらの作品の本質からもズレていることは、明白に指摘できる。
もっとも、単に泣きたいだけなら、それがいったいどういう物語なのか──といったことは、一切関係ないのだろうけれど。

この作品も「ニュー・シネマ──」も、僕は全身全霊をかけて支持する。
でも、感動乞食たちのセンチメンタリズムは、決して赦さない。
そんな安っぽい涙は、まさに、獅子身中の虫にしかならないからだ。
:2012/4/2


■3月のライオン(7)