サヨクの旗印、カタカナ符丁

casa_kyojin2012-07-11


震災以降、原発事故以降の被災地を語るとき、“フクシマ”というカナ表記や、“フクイチ”という略語&カナ表記を使いたがる人、といったボリュームがあるが、彼らはどうして「福島」「福島第一原発」とは言わないのだろう。

例えば、マータイさんの記事で「モッタイナイ」と書くのはわかる。
だけど、日本人が日本語で語る時に“フクシマ”?
まして“フクイチ”なんて符丁まで使われてしまうと、わざとわかりにくいようにしているのだろうか、とまで思ったりする。


心底疑問に思っていたけれど、どうやらそういうことか──という自分なりの結論に着陸できたのは、大飯原発で再稼働反対の活動中の左翼活動家の姿を見たからだった(画像)

原発の現場に成田闘争を持ち出すのは、時代錯誤の上、大きな勘違いに思えるが、彼らににとっては、当然のことなんだろう。
フクシマ、ナリタ、そしてヒロシマナガサキは、反体制活動という左翼的文法では“一連の流れ”なのだ。

“フクシマ”は、サヨクとそのシンパたちにとっては符丁であり、敵味方識別コードでもあるのだろう。

例えば、1982年の国連軍縮特別総会での日本被団協・山口仙二の演説は、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と締めくくられた。

その場所で、公用語の一つである英語で語る意義や効果は分かる。
でもそれが、日本の媒体で、ましてこの演説を取り上げた教科書で「広島」と表記されないのは何故か?
原爆についての主張は、彼らの符丁で行われる必要があるからではないか?


しかし、フクシマ、フクイチが、「ノーモア・ヒロシマ──」に連なる、というのは無理がありすぎる。
被爆者と被災者を同列視するのは、そもそも筋が通らないし、そんな無礼千万な話もない。
そもそも加害者が、アメリカと、日本政府+東京電力では、位相が全く違う


──と、ここまで書いて気がついた。

サヨクな人たちは、先の戦争の加害責任は、日本の軍部や政府、そして天皇にある、とすることが多い。
また、原爆死没者慰霊碑の「過ちは 繰返しませぬから」の主語を「人類」「世界市民」とする思想は、たしかに高潔ではあっても、やはりそこにはバイアスが感じられる。


そして、一番問題なのは、反体制活動としての反原発は、反日のための手段として「再稼働反対」「脱原発」を持ちだしてきてはいても、被災地、被災者に対するシンパシーを抱いているようには、なかなか思えないことだ。

例えば、子供たちは福島から逃げろという活動があるが、それは、それでもふるさとで暮らしたいという思いに寄り添えているのか?

あるいは、北九州で、中核派と、オルグされた“人民”が、広域瓦礫処理の受け入れの妨害活動を行っているが、低線量瓦礫に至るまで被災地に封じ込めろというなら、それは、代受苦としての放射能被害を穢れ視するという、被災地、被災者差別ではないのか?

とどのつまり、東京も危ないとか言い立てる向きがあるように、そうした扇情的なやり口は、結局はこの原子力災害を、同じ国民として共有するという気概が全く無いのだろう。


昨年来、新宿や高円寺、代々木などで行われてきた反原発デモは、自発的に集まった──とか、特定のイデオロギーに属していない若い世代が──といったギミックが繰り返し語られているが、その実はプロの活動家がオルグし、動員された労組が赤旗を振り、福島みずほグリーンピースが登壇し……といった真っ赤な反体制デモだった。

そうした現場で、活動家たちはなるほどプロだと思ったのは、大飯原発再稼働反対の座り込みでは、機動隊と対峙する最前線に小さな子供が、人間の盾として配置されていたことだ。
そしてもちろん、子供の頃から繰り返し見てきたテレビや映画で「女子供を盾にするとは卑怯な奴ら」と言われていたのは、いつも悪者の方だ*1

都内のデモや、大飯の座り込みに“自発的に集まった”人たちは、今こそ毛沢東の言葉「ゲリラ戦は人民の海を泳ぐ魚」という言葉の意味を、考えてもらいたい。

あるいは“自発的市民”までもが、大飯の現場で子供を連れ歩いていたとしたら、そんなパラドックスもない。
子どもの未来を守れ!──と、どれだけ叫んだところで、我が子をみすみす危険にさらすような親に、そんなお題目を掲げる資格は、無い。



さて、大飯の道路封鎖といえば、やはりTwitterの「どうしてこうなった・・・」で有名になったビキニ姿の女性だろう。
フンドシ男に担がせたチンコ神輿にまたがり、警察の阻止線の前で気勢を上げる彼女の姿は、テレビでも放映された

このパフォーマンスの意図は、全く理解できないし、この場に全くそぐわないものだったのは確かだけれど、それでもせめて、スタイルだけでも体裁が整っていたらなあと、残念に思う部分もある。

まず、メガネ+マスクの活動家スタイルのままなのがアウト。
そして、日本流にガチガチに寄せ上げされたトップも、色の合わないパレオも、とにかく全部がミスマッチ。

そのへんで、常に一本筋の通った見せ方をしているPETAFEMENは、さすがに上手い。
そして“脱ぐなら脱ぐ”という潔さもまた、小気味いい。
つまり、こういうパフォーマンスは、主義主張が違う人でも思わずクスリ、ニヤリとさせられてしまうような、ユーモアが必要ということだ。

だから、同じPETAでも、血まみれのパフォーマンスや、ファッションショー乱入といった極端さは評価できない。

そして「洒落にならない」という意味では、大飯原発のビキニも一緒なのだけれど。



一方、改正著作権法に対する抗議を行った、国際的ハッカー集団「アノニマス」は、黒服に「Vフォー・ヴェンデッタ」のガイ・フォークスのマスクをつけた姿で現れ、黙々とゴミ拾いの清掃活動を行った。

なるほど、原発前のビキニとは、色々な意味で随分違う。

結局のところ、他者にアピールするためには何を見せるべきか、というスタイルをわかっている人たちと、自己満足でお祭り騒ぎをしたいだけの人たちの差、ということなのだろう。


■Vフォーヴァンデッタ:ガイ・フォークスのマスク


■渋谷にアノニマス 仮面つけ無言の“抗議”(産経新聞:2012.7.7 11:22

違法ダウンロードを刑事罰化した改正著作権法に抗議して、政府機関などへのサイバー攻撃を表明した国際的ハッカー集団「アノニマス」の集会が7日、東京都渋谷区神宮前で行なわれた。アノニマスのシンボルとなっている仮面をつけた賛同者らが多数集まり、無言の“抗議活動”を行なった。

*1:戦争でこれを行った場合は、戦時国際法違反になる