「火垂るの墓」★1/5

戦争の悲惨さなら、痛いほど伝わってくる。
しかし、安易な自虐史観からの涙を持ち出すべきではない。
大東亜戦争において、日本本土であれだけの民間人が殺されたのは、アメリカが国際法を無視、蹂躙して市民殺傷、民族浄化のための都市爆撃を行ったからであって、日本があの戦争を戦ったからではないからだ。



東京大空襲から60年後の2005年3月10日。読売新聞は思い出したように反米的な社説を掲載していた。
911以降のアメリカの戦争政策にはお追従ばかり言っていた読売だから、これもまた「ビジネス」としての文章なんだろう、と言いたくなる。

それにしたって、東京大空襲を「戦争犯罪」と断じているだけまだマシというもので、朝日新聞の社説となると『あれは「戦場」だった』とくる。
なるほど戦場だったら、ルメイ司令官の言うように「戦闘員」が殺されても文句は言えない。

もっとも─

「大空襲の被害の実態を立体的に明らかにすることは、日本が加害者だった時代に生きたアジアの人々の嘆きの深さを共有し、イラクで続く理不尽な死への住民の怒りを理解することにつながる(同社説)」
という結びの一文を言いたいだけの為にする論なのだろうから、反戦センチメンタリズムを例によって枕詞にしているだけだろう。





とかく本作には、「泣いた」、「かわいそう」と、ただただ涙が注がれる。

しかし、GHQアメリカ政府のプロパガンダや、それによって洗脳された層(結果的に野坂昭如も含まれる)の言うことを後生大事に受け止めるあまり、この兄妹の死や、戦争の犠牲者そのものに対して、ナイーヴすぎるリアクションをとってしまう人たちの感覚は、やはりどこかおかしい。

戦争はイケナイ! それはもちろん平和の真理だ。

しかし、アメリカが日本に対して戦略的に行った都市爆撃には、非戦闘員、市民の直接殺戮を目的とした虐殺行為、民族浄化として、あのホロコーストにも比肩する側面があったことを忘れてはいけない。

あの兄妹の死は、アメリカの非道によって為されたものであり、戦争行為の本質が引き起こしたものではなく、ましてや日本の戦争がその責めを全面的に負わされるべきものではない。


例えば、東京大空襲一つをとっても、わずか一晩で11万人という膨大な数の一般市民が虐殺されている。
それら犠牲者を、全て軍需産業の関係者であると言いきったアメリカ軍司令官のプロパガンダは、あまりにも底の浅いごまかしだ。

また、その詭弁を構造的に追認するのが、この映画の原作を執筆した野坂昭如の持つ価値観であり、戦争犠牲者の死の理由を、日本や日本人に帰結させる読者(観客)も、日本の来し方行き方を全否定することで自虐的に喜ぶ屈折したマゾヒストとして、その欺瞞に追随しているにすぎない。


「市民が犠牲になったのは日本が悪かったからだ」、「教科書に墨を塗らせた教師たちは変節が過ぎる」、「パンパンは金と欲望の為に売春婦になった」一般的にも語られるそういった自虐は、事実誤認の中傷ですらある。

一体誰がそうさせたのか。そして、そういう「戦後」の歴史を共通認識として教育させようとしたのは誰なのか。もちろん、GHQの"War guilt information program"に他ならない。


かの戦争における日本の加害責任をはっきりさせることは、もちろん必要だ(そしてそれは充分になされていない)。しかし、もう一方の当事者のアメリカにも当然存在する加害責任を、まるで無かったことにでもしようとする人たちの存在は、自虐を通り越して自殺行為に等しい。彼我の是は是、非は非とする姿勢を持たず、「丑松思想」を振り回すことには、なんの理もないだろう。


■アメリカひじき・火垂るの墓



野坂昭如はこの短編集の表題二作で直木賞を受賞。

アメリカひじき」は終戦後の空気を見事につかみとり、切り取った秀作。
母に聞いた終戦当時の様子と同じようなエピソードや、「アメリカさん」との関わりが登場することに驚いた小学生の頃の夏。


もし、「アメリカ─」の方が映画になっていたら……と想像するのは結構楽しい。

もちろん、真っ赤っかで反日アナーキスト宮崎駿が首魁のジブリがそんなことをするわけがないのだけれど。