「海猿」★1/5

「愛と青春の旅立ち」、「トップガン」的構造の縮小コピー。

原作のシビアさやハードさは無くても、マーケティング的デコレーションにはぬかりがなく、コアターゲットのハートはガッチリキャッチ? 

大丈夫です、「踊る大走査線」が楽しめる人なら。きっとこの作品も面白いですから。



長い原作を映画化するときに、どこをどう切り取るのか、という問題はたしかにある。しかしこの作品は、映画化に当たっての作りかえで、明らかに物語の質が落ちてしまっている。 もし「スピード」がSWAT養成スクールの卒業までで終わってしまったら、それこそ「スロー」で面白くもなんともなかっただろう。

「愛と青春の旅立ち」では怒濤の恋愛が展開されたし、「トップガン」では主人公はクライマックスのシークエンスで大活躍した。
ところがこの作品は、とにかく養成課程に終始するだけだ。

原作のスタートが、大輔(伊藤英明)が潜水士訓練を受ける課程からスタートしていたとしても、映画として描くべきは、海上保安官が最前線に立ったときに直面するであろう現実であるべきではなかったか。

第一、そうした現実はフィクションを超えて既に存在しているのだから。


シニカルなライバル・三島(海東健)の存在、大輔の挫折、環菜(加藤あい)との出会いや関係性の蹉跌、工藤(伊藤淳史)の死等々、構造的にはまさに「愛と青春のトップガン」なのだけれど、「トップガン」のようにプロフェッショナルとなった主人公の活躍があるわけでもなく、もちろん「G.I.ジェーン」のような“社会的”メッセージも無い。

大輔と環菜の関係性にしてもキス止まり。その程度のラブアフェアしか抱えていないような恋愛が、大輔を御茶ノ水にまで駆り立てるというなら、それは恋愛的な絵空事だ。
いくらこの映画がコアターゲットをティーンエイジャー以下に設定しているからといって、大輔や環菜がその年齢だというわけではない(もっとも続編の存在を考えたら、潜水士を拝命した大輔が単に東京管区に配属されただけのことかもしれないけれど)

また、環菜の立ち位置にも無用の改変が加えられ、これも原作のスポイルに一役買っている。

原作では新聞の事件記者。現場で生と死の現実に直面していくことが、もう一方から物語全体を容赦なく急き立てていく。
ところが映画では、バイトに毛の生えた程度のファッション誌の編集者にされているのだから、物語の質はどうしても下がる。

とにかく、どの要素からも大きなカタルシスが得られない構造になっていて、観客は寸止めで放り出されてしまう。そもそも訓練過程だけで物語になりうるのなら、「フルメタルジャケット」もハートマン軍曹大活躍に終始する、醒めない悪夢のような映画になっていたかもしれない。

国民の大多数が北朝鮮工作船への砲撃の記録映像や、それに参加した巡視船の弾痕だらけのブリッジを目の当たりにした今となっては、潜水士が訓練で潜って浮上するという基本構造をどれだけ肉付けしたところで、小さなドラマにしかなれない。
つまりこの作品は、とうの昔にもっとシビアな現実に追い越され、周回遅れのバック・マーカーになってしまっているのだ。


たしかに、海上保安庁の「史上初の全面協力」をしきりに宣伝しているように、巡視船やヘリコプターがバンバン出てくるシーンはたしかに圧巻だった。 でも、海上保安庁は、こんな映画に協力してしまってよかったのか? こんな内容で担当者は満足したのか? そのへんをぜひ聞いてみたい。
政治的な状況のせいで、イラクに派兵されている海上自衛隊よりも、さらに直接的な危機に日々臨んでいる海上保安庁が、どうしてこんなゆるい映画にホイホイと協力してしまったんだろう。

もちろん「潜水士の人命救助」も大変な任務だし、そういった日常的な活動を広報したいという意識が海上保安庁にはあったんだろう。
しかし、テレビ屋のマーケティングに踊らされ、ただただ甘ったるい映画に協力させられただけで終われば、最前線に立っている海上保安官達の立場は、面目はどうなるのか。
海上保安庁が、今このときに国民に対してアピールするべき内容を語っているのならともかく、単なるマーケティングプロダクトになぜ税金を使わなければならないのか。フジテレビの商売のためにヘリコプターを飛ばすことに、正義など無い。

たしかに、本職の海上保安官を動員できたことは“様になる”葬列の演出を可能にしている。「踊る大捜査線 THE MOVIE」では大量の素人エキストラを使ったことで、整列した警察官の敬礼が目も当てられないほどヒドかったのとは雲泥の差だ。
しかし、機材だけではなく人までそうやって動員したあげく、「海保の査問委員会は出
席した訓練生の不規則発言まで許される」、なんてトンデモ描写をされてしまって、海上保安庁は恥ずかしくないのだろうか。


続編では、テレビ屋にアゴで使われているような海保は見たくない。本当にそう思う。



さてこの映画は、公開前から「エンドロール終了後に続編の予告編が入る、制作の決まっていない続編の予告が入るのは異例のこと……」なんて宣伝がスポーツ紙などでしきりと記事になっていた(公開後には続編制作の「決定」が同じように報道されていた)

続編では潜水士になった主人公が大事故に臨むことになるようだけれど、それを第一作に持ってきたらよかったのに、とつくづく思う。

第一、ヒロインはどうからんでくるんだろう? 原作では、新聞記者の彼女が主人公のかかわった事件に有機的無機的にからんできたのだけれど、単なる恋人がテレビの前でただ心配するだけなら、出てこなくてもよさそうなものだ。


僕がこの作品を見たのは試写だったので、観客はこの作品のマーケティングからはズレる20代後半〜30代前後の女性が多かったように見えた。
そして、その「予告編」に「SEE YOU NEXT STAGE」の文字が出た途端……会場は大爆笑に包まれた。

「踊る─」の主要客層が10代の男女だったように、今回も題材や内容、展開を彼等に合わせてフォーカスしたんだろう。

でも、大人はだませないよ、ってことだったのだと思う、あの爆笑は。


■「海猿 低価格版」