無自覚の差別を赦すことはできるのか──倖田來未 2

casa_kyojin2008-02-09


昨日掲載したニュース原稿「倖田來未“謝罪”インタビューこれだけの欺瞞!“反省”発言に終止!!」では、インディーズのニュースサイトの署名原稿とはいえ、さすがに書けなかったこともあったし、その反面「職業的バイアス」の存在もあって、120%自分の言葉で書けているとは言えません。

ここではそうした「リミッター」無しで書くことにします(もっともサイトでの一番の制約は、文字数的なことなんですが)



さて、というわけで、「FNNスーパーニュース」での倖田來未“涙の謝罪”の話題の続きです。


まず、あのインタビューには、衣装やメイクといった部分はもちろん、様々な形でプロの「コーディネーター」が入っているような印象を受けました。

ここでいいう「コーディネーター」というのは、謝罪会見といった「危機管理」をアレンジ、演出するプロのことです。

そういう人たちの仕事ぶりは、例えばワイドショーで、亀田大毅の謝罪会見での亀田親子の“心理”を分析して見せたり、あるいは「TV Bros.」で光浦靖子に謝罪会見の「やり方」をレクチャーする、といった形で見ることができます(ちなみに光浦がケーススタディに指定したのは「おサセでごめんなさい」会見)

でももちろん、そんなのは手品の「ナポレオンズ」のような「ネタばらし」
彼らが本来の職能を発揮するのは、もちろんこうした機会に「中の人」なったときです。


コーディネーターのいない謝罪会見は、雪印(「寝てないんだよ!」)や、船場吉兆(「ゴニョゴニョ……頭の中が真っ白になって」)になっちゃう。
逆に彼らが入ると、船場吉兆の営業再開記者会見みたいに背骨が通るわけです(女将の態度や言葉の選び方は、あまりにも変化していたように見えました)


それに加えてあのインタビューは、前日に撮られた「ビデオ」です。
編集で、なんでもできちゃう。


そもそも記者会見が開かれなかったこと。
それ自体がこの“謝罪”をコントロールしようとしている、エイベックス側の意識の強い現れでしょう。

フジサンケイグループも、自分の不始末の尻拭いの方便として“倖田さんが自分の言葉で謝罪したいと希望”、なんて言って涼しい顔で知らん顔をしているのだから、これはもう共同正犯になっちゃったわけです。

つまり倖田とエイベックス、フジサンケイグループには、「Wの悲劇」のスケープゴートにされた劇団員女子や、辻希美杉浦太陽の“中出し婚”会見レベルの覚悟すら無かった。

もっとも、三田静香(薬師丸ひろ子)は駆け出しだろうとなんだろうと女優だったわけだし、杉浦太陽だって俳優だったわけです。

しかし、倖田にそういった類いの「覚悟」を求めることは、やはり難しかったのでしょう。


ともあれ、フジサンケイ、エイベックスという大メディアグル−プが、力技でそうした欺瞞を持ち出してきた時点で、倖田“擁護派”は、かえって肩身が狭くなってしまうような印象もあります。



ところで、この“問題発言”の根本的な部分というか、原初的な部分を今一度考えておきましょう。

そもそも、この“騒動”は「倖田」「倖田の現場マネージメント」「ニッポン放送の放送現場」、この三者のプロフェッショナリズムの欠如が起こした「単純ミス」の“複合体”です。
それ自体は単なるミスでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

しかし、これだけラジカルな言葉だったので、その一言は「たかが一言」のレベルには踏みとどまれなかった。

生放送ではなく、収録だったこの放送で、しかも看板番組の「オールナイトニッポン」に、今何かと話題のくぅちゃんがゲストパーソナリティとして登場! というビッグイベントで、どうしてここまでヒドい発言が垂れ流されてしまったのか。


正直なところ、当の倖田については、つまりは「そういう人」だった、ということでしょう。
まさかここまでヒドいとは思っていなかったけれど、そういうキャラクターだったのだから“しかたない”とも言えます。

でも、あんな「差別発言」を、どうして現場のディレクターは止めなかったのか? 当の倖田のマネージャーも何故止めなかったのか?

つまり今回の騒動には、本来倖田を守るべき存在が、みすみす彼女を十字架に磔にした、という側面があります。これはもう、どうしようもないくらいにあるわけです。


だからといって、一片の同情も寄せるわけにはいきません。
これは企業の「不祥事」ではないからです。
自分の名前と才能で仕事をしているアーティスト、それもプロなら、最終的に責任をとらなければいけないのは、誰でもない自分一人です。

それに、この「羊水発言」はラジカルな性差別発言で、人間差別発言です。

これは、メディアで仕事をしている人間なら、プロなら、絶対に口にしてはいけないことの一番手前にあることです。

倖田の発言そのものはもちろん、常々「おし」や「つんぼ」、「百姓」や「八百屋」といった言葉そのものが差別であるかのように言い立て、政治的な言い換えを押し付けるメディア側の人間が、そうした根本的な差別をスルーしたことは見過ごせません。


また、その点において、視聴者側にも大きな勘違いをしている人が多いのは残念です。

テレビで放送されたような「街の声」でも、“ブログジャーナリズム”でも、「彼女はまだ25歳だから何もわかってない」「自分が母親になればわかる」といった、同情的というか、“上から目線”の意見が少なからずあります。

こうした根本的な差別を、“上から目線”で結果的に肯定する人たちこそ、一番厄介なポジションにいる「差別者」でしょう。

この構造は、僕が常々考えている「フェミニストの一番の敵は男権論者ではない」というテーゼと似ています。

「くうちゃんはそういうつもりはなかった」──なんて言っている人に、聞いてみたいのはその辺です。

「無自覚」だったら、何を言ってもいいのですか?



またこの“謝罪インタビュー”には、どうしても残念なことが一つありました。

それは、最初から最後まで、倖田が一切視聴者に向き合わなかったことです。

例えば「CBSドキュメント」のような番組のインタビューでは、たしかに話者はインタビュアーとだけ向き合って話します。もちろんそれなりの意味というか、演出意図があっての話でしょう。

でも、今回のインタビューは「謝罪」が目的だったはずです。

インタビュアーにだけ語っていた人が、“自分の言葉で謝罪したい”と言っていた? それだけでもう信じられなくなってしまう。

なぜ自分の口から「私自身の言葉で謝りたかった」と、そして「ごめんなさい」と、視聴者に向かって言えなかったのか。

そもそも倖田は、「反省」とは言っても、明確な「ごめんなさい」は一度も口にしていません。

そこだけに限っても、この“謝罪”には、プロとしての意識や矜持が全く感じられません。



2004年、スーパーボウルで“露出騒動”を起こしたジャネット・ジャクソンは、その後テレビで直接視聴者に呼びかけ、謝罪しました。

その内容は「意図していなかった」「間違いだった」と、およそ信じにくいものでした。
しかし少なくとも、彼女はカメラを見据え、「ごめんなさい」と言ったわけです。


今回、倖田には、ウソでもいいから「ごめんなさい」と言って欲しかった──こう言葉にしてしまえば、ひどいパラドックスになります。

でも、少なくともあんなインタビューでは、誰が何に対して、どういう謝罪をしているのか、曖昧模糊としたままで何も伝わってきませんでした。

これは、とても寂しいことです。

本当に、本当に残念です。


■乳首ピアス(ニップルシールド)※これを乳首に貫通させたバーベルピアスで固定する

スーパーボウルのハーフタイムショーでオッパイポロリをやったジャネット・ジャクソンに、アメリカでは抗議電話が殺到。
でも、日本で中継したNHKには、電話なんて一本も無かったとの由。

それ自体は「文化の差」でしょう。

でも、こと「ごめんなさい」に関する限り、カルチャーギャップなんてものは、そうそう無いように思います。

倖田來未さん:テレビで涙の謝罪「軽はずみな言葉だった」毎日新聞 2008年2月7日 20時04分

歌手の倖田來未(こうだ・くみ)さん(25)がラジオで「35歳を過ぎると羊水が腐る」と発言した問題で、倖田さんは7日放送のフジテレビ系のニュース番組の中で謝罪した。倖田さんはインタビューに答える形で、「軽はずみな言葉だった。私の言葉で傷ついた人たちに謝りたい」と涙ながらに語った。現在は活動自粛中。「また皆さんの前に立てる日を目指して、しっかり反省したい」といい、復帰の時期については語らなかった。