ever free 何処にfree?

casa_kyojin2008-04-07


知人の日記に、「フリー!! チベーット!! と ただ学園祭のノリで騒いでいるだけのような気もしました」という一節を見つけた。

フリーチベット」という趣旨で開かれた、音楽関連のイベントに対しての感想だ。


チベット暴動以来、僕も同じような印象を、いろいろなところで感じている。

フリー・チベットと叫ぶ人に、ブログのトップにチベット国旗を掲げる人に、ハンドルで"──@Free Tibet"と名乗る人に。
その人の胸の中に、どれだけのチベットがあるのだろう、と考えてしまう。

もちろん、あの暴動に対する中共政府の血の弾圧は、現代にはありえない蛮行だ。
そんな21世紀的な“化外の地”で、“平和の祭典”のハズのオリンピックが開催されることには、大きな疑問を感じる。

しかし、「安保反対!」や「♪ Imagine all the people……」。あるいは、それこそ「造反有理」みたいな“スローガン”としての「フリー・チベット」という言葉の中に、その周りに、その言葉を発する人の中に──いったい何があるのだろう。


そんなことを言っている僕だって、チベットの何がわかっているわけでもない。

でも僕は、少なくとも宗教家としての、哲学者としてのダライ・ラマを尊敬している。
例えば、「人はなぜ人を殺してはいけないのか」というラジカルな命題に対して、シンプルでありながら、圧倒的に力強く答えてくれたのは、キリストでも、マホメットでも、そして釈迦でもなく、彼だった。


それこそ、──@ Free Tibet的ムーブメントに、僕も連帯したいとは思う。
しかし、どれだけの人が、"Free Tibet"ということをわかっているのだろうか。

“連帯の証”としてダライ・ラマの著作を読めとかいうつもりはサラサラない。
でもせめて、ブラッド・ピットが主演した映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」くらい観ていてほしい、と思うのは人情だろう。

冒頭の画像は、そうした“フリー”で“チベット”な人に対する揶揄でもある。
もちろん言葉通りの意味ではあるけれど、"Free"を誤解する人がいたとしたら、腹を抱えて笑わせてもらおう。



「なんだか知らないけれど“フリー”で“チベット”」な人に対して僕が持つ最大の疑問は、そのように、彼らにどんな「内的なチベット」があるのか、という点につきる。



そして、僕が抱く疑問はもう一つある。


たしかに、チベット問題は根本的な国際問題だ。
国際社会は、これを「明確かつ現在の危険」として取り上げなければいけないのに、その取り組みは遅く、そしてどうにも小規模に過ぎる。

しかし、「“フリー”で“チベット”な人」は、自分の足下をどれだけ見ているだろうか。


僕の一族は、日本の最後から二番目の内戦で負け組に従軍していた。

当時仙台の近くにいた僕の曾祖母は、紋付をほどいて筒袖の洋装軍服を急ごしらえする仕事をさせられている(そのような場面が、まさに岡本喜八の映画「吶喊」に登場する)

チベット問題のことを、同じ国の中で云々……という捉え方もあるが、少なくとも鹿児島や山口、高知や佐賀の人に、そんなことは言ってほしくない。

負けた方は忘れないのだ。

それこそ大東亜戦争にしてもそうだろう。
歴史認識という点において、日本と、日本人は、ASEAN諸国に対して甘えてはいけない(そして、中共や朝鮮に対して妥協盲従してはいけない)


しかし、僕が言いたいのは、戊辰戦争大東亜戦争に対する総括が、チベット問題を俎上にする時の必要条件になる、ということではない。

戊辰戦争……大東亜……なにそれ?」

といった向きが、それこそ“学園祭ノリ”で“フリー”だったり“チベット”だったりするのであれば、そんな滑稽なことはない、ということだ。

そもそも、にわかに「フリー・チベット」を言い出した人たちは、これまでどれだけ「チャイナ・フリー」だったというのだろう。

僕はそれこそ、毒入り餃子云々の前から、“中国産”の農作物や加工食品を遠ざけていた。
農薬云々といった報道がされて「なるほど」とは思ったけれど、それ以前の問題として、たとえばニンニクはどんなに火を通しても“ジャリジャリ”だったりしたからだ。


僕が、今年の満開の桜の上に、チベット国旗の赤と青でああいったメッセージを記すことができても、「──@ Free Tibet的」なあれやこれやに組することができないのは、そのへんだ。



ところで、北京オリンピックの「ボイコット」を叫んでいる人もいるが、それはまた根本的な勘違いだろう。

旧ソ連アフガニスタン侵攻を理由に、西側諸国がモスクワオリンピックをボイコットしたその行為は、動機としても、行為としても、“平和的”だったとは思えない。

それよりも、オリンピックには参加するが──自己満足としての歴史総決算や、政治総括的な示威(自慰)行為が繰り広げられる開会式や、その大団円としての閉会式といった国家プロパガンダをボイコットする──とやった方が、よほど筋が通るのではないか? といった夢想をしてしまう。

現実的には、日本選手団には、それこそスポーツマンシップに則って、正面から正々堂々と支那の選手を打ち負かしてもらうしかないだろう。

もっとも、サッカーのアジア大会や、東アジア選手権のカンフーキックのようなことが繰り返されてしまえば、そんな理想をどれだけ高く掲げたとしても、その気高い理想は、無為に棚上げ、店晒しにされてしまうかもしれないのだが。




怒りは、怒りによって克服することはできません。もし人があなたに怒りを示し、あなたも怒りで答えたなら、最悪の結果となってしまいます。
それとは逆に、あなたが怒りを抑えて、反対の態度 ─相手を思いやり、じっと耐え、寛容になる─ を示すと、あなた自身穏やかでいられるばかりか、相手の怒りも徐々に収まっていくでしょう。

── H.H. The Dalai Lama

■セブン・イヤーズ・イン・チベット<ニューマスター版>

レンタルでもなんでも、とにかく一見を!




■セブン・イヤーズ・イン・チベット ─チベットの七年/ハインリヒ・ハラー(古本)


映画を観た人には、とにもかくにも原作を読むことをお勧めします。
ブラピ映画は、演出の範囲を超えて原作を改編しているのが残念。

でも、楽天では99円。アマゾンに至っては、1円から買えるのは……ちょっとフクザツ。

チベット問題が、どれだけの“国内問題”なのか、といったあたりは、このYouTubeの三分過ぎに登場。