チベットへの“想像力”
前略 メールをありがとうございました。
北海道でも、中共当局のチベタンへのマークが厳しくなっていると聞き、驚きました。
悲しくなったり、怒りを感じたり、あるいは、悔しくも納得させられたり……と、なんとも複雑な気持ちになっています。
チベタンの方が、
「どういうリアクションであれ、盛り上がるのはありがたい」
と、おっしゃっていたとの由。
たしかに、そういう部分もあるでしょう。
でも、こうしたラジカルな問題を、そのように“消費社会型メディアアプローチ”として捉えることには危うさも感じます。
とかく、日本の社会の“消費動向”は、喉元過ぎればナントヤラ。ナタデココのブームが過ぎ去った後のフィリピンの農村の惨状、といったことを思い出してしまったりもするわけです。
もちろん、チベットの問題は食べ物の「トレンド」といった表層の現象ではありません。そうした農村で物置に山と重ねられたプラスチック容器のようになることは、無いでしょう。
しかし、先日のブログに私が書いた「“フリー”で“チベット”」といった類いの人たちには、そうした一過性の事象と同じような軽さや危うさを感じてしまうのです。
でも、もし万が一、このムーブメントの次の局面が、位相が、無人の広野になってしまったら──それは元の木網どころか、あきらかな後退になってしまいます。
僕が心配なのは、そうしたことなのです。
さて、戊辰戦争やアイヌといった話が「上手く咀嚼できない」とのこと。
じつは、僕にとっても、同じかもしれません。
この返信を機会に、自分自身でもあらためて考えてみようと思います。
まず、戊辰戦争についてです。
この「内戦」と、その原因である「暴力革命」としての“明治維新”の関係については、僕のようにルーツが仙台だったり、出身が北海道ではなかったとしても、「日本人」なら少しは、本当に小さな欠片でもいいから、頭の隅にとどめておくべき問題だと思います。
近代国家としての日本の形成は、旧幕府というテーゼ、新政府というアンチテーゼによって生じた、アウフヘーベンに他なりません。
たしかに僕の一族はこの戦争の「負け組」です。
しかし、だからといって、薩長土肥の人に、府県名と府県庁所在地の名前が同じところの人たちに、贖罪してほしいわけでも懺悔してほしいわけでもなんでもありません。
認知認識のほんの小さな欠片でもいい──ということはつまり、裏を返せばそのくらい関心を持たれていない問題だ、ということでもあります。
こうした地平では、ちょっとした関心を持ってもらえることだけでも、大きな意味を持つということです。
そうした部分で、確信犯としての空騒ぎをしてみせている、という部分もあります。
今の時期、「チベット」をブログやSNSで語れば、それに由来するアクセスが多くやってきます。
その中で数人でもいいから、「戊辰戦争」だとか「アイヌ」といった言葉に“ひっかかって”くれないだろうか──と、ささやかに願っているわけです。
以下は本質的な話です。
あの「暴力革命」には、歴史的な必然という部分がたしかにあったと思います。
しかし、薩長土肥が“正義”だったり、坂本龍馬が“英雄”という価値観が、日本と日本民族のファンダメンタルになってもらっては困るわけです。
薩長も、坂本も、日本の統一、統合を指向していたのはたしかです。
しかし、そこに融和や調和への指向はあったのでしょうか。
坂本は違う! という人は多いでしょう。だから暗殺されたんだ、という人もいるかもしれない。
でも、腹の底から平和を願っている人が、イギリス人の「死の商人」の走狗になるというのは、全く納得がいきません。
次に、アイヌのことですが、これは僕にとっても、より以上に難しい問題です。
なにしろ「負け組」転じて、今度は自分が「侵略者」の側に立っているわけですから。
でも、そうした史実と、今でも日高地方ではアイヌ差別──教師ぐるみでクラスのアイヌの生徒をイジメていたりする──が、根強く残っている、という問題は、全く別の地平に存在しています。
先日も書きましたたけれど、僕はジョン・レノンの「イマジン」という歌が大嫌いです。
でも、「想像力」というものが、認知や理解といったものの一番手前の原初的な段階で、どうしようもなく必要とされる、ということは事実です。
これはもうどうしようもないくらいの、圧倒的な事実なわけです。
だから僕は、足下から順番に、思いを馳せようと思います。
ぐらついていたり、フワフワしているだけの地平から、どんな遠くに思いを巡らせたとしても、そんなものはファンタジーにすらなれないでしょう。
チベットに、ビルマに──そして全ての世界に想像力を駆け抜けさせるとき、一番必要なのは、足下の現実に対する認識だと思います。
極端すぎる例えになりますが、ゴミ屋敷に住んでいる人が、清掃ボランティアに出かけていってもしかたないじゃないですか。
そういう僕だって、形而上でも形而下でも、自分の部屋ひとつ整理整頓できずにいるわけですが。
子供の頃からずっと、散らかしっぱなしの部屋で寝起きしているわけですが。
それでは、また。
草々
旧幕府軍、新政府軍それぞれの小さな墓碑銘を目の当たりにしたとき、そこで語られるべきは憎しみではない。
ただただ、あの内戦への無関心を悲しく思う。
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