PCの中にある差別 2

casa_kyojin2004-02-02


前項から続く)

メディア的なPCでは、例えば「つんぼ」を「ろう者」とか「耳の不自由な人」と置き換えることがあります。
そして「つんぼ桟敷」や「耳つんぼ(たんぽぽの綿帽子の異名)」も、いわゆる「放送禁止用語」として同じように扱われています。

こういう言い換えこそ欺瞞、偽善で、本質的なことは何も変わっていないどころか、かえって悪い影響があると思います。
そうしたタブーを作り上げたことが、かえって「つんぼ」という言葉の成り立ちや存在そのものが「差別」であるかのような誤解を、社会通念にまでしてしまった可能性はないでしょうか。

もちろん、差別的な意図を持って「つんぼ」という言葉を発する人はいるでしょう。
そういう場合を考慮して、「そういう立場にある人自身が不快に思う言葉はPCの対象になる」という考え方もあります。
しかし、そういった価値観の過敏な運用が、言葉本来の意味をあいまいにするだけではなく、PC的に窮屈な社会を助長している面もあります。

例えば石原都知事の発言でたびたび話題になる「支那」とか「三国人」にしても、支那は歴史的な呼称で、現に英語やフランス語では同じ語源の言葉をそのまま使っています。
三国人にしても敗戦後のメディアが日本の旧占領地だった人間の犯罪を報道するときの「配慮」として使用されていた経緯もあり、犯罪云々の話題の時に使われるのは真っ当な用法と言えます。


ある言葉を発する行為を即ち差別としてしまうような表層的、短絡的な理解では、差別というラジカルな問題の本質には決して届きません。

「PC的言い換えで差別は無くなる」

そんな免罪符をどれだけばらまいたところで、欺瞞がどんどん横行するだけでしょう。差別はあくまでも、言葉ではなくそれを発する人の内部にある問題です。

「耳の不自由な人」と言えば善、「つんぼ」と言えば悪。差別問題をそんな単純な図式に落とし込み、社会全体が思考停止状態になってしまえば、かえって本質が隠ぺいされるだけで、状況の改善どころか、悪くなる一方になるように思えます。

(この項続く。次回はPC教条主義の限界について)

こどものころ、綿帽子を飛ばして遊んだものだけれど「耳に入るとつんぼになる」なんて言われてませんでしたか? 
少なくとも北海道の一部ではそうでした。それで綿帽子のことを「耳つんぼ」なんて呼んでいたわけです。

たんぽぽ自体にも、聾草という異名がある……なんてのは大人になってから知りました。