PCの中にある差別 3

casa_kyojin2004-02-03


前項から続く)

ドラマ『愛していると言ってくれ』は、ろう者(聴覚障害者)の画家、榊晃次(豊川悦司)と劇団員の紘子(常盤貴子)のラブストーリーでした。
晃次は子供の頃の病気で後天的に聴覚を失ったという設定です。

聴覚を失ったからといって、口話(手話の対義語。音声原語のこと)ができないわけではありません。ろう学校では口話の教育も行われます。
実際、ドラマのクライマックスで、晃次がホームの反対側にいる紘子に懸命に口話で呼びかける、というシーンがありました。

ところが、脚本家の北川悦吏子は、ラジオ番組で「榊晃次はろうあ者」とサラッと言ってしまいました。

ろうあ者、漢字で書くともっとハッキリします、聾唖というのは「つんぼでおし」ということです。
どれだけ「つんぼ」を「ろう」とか「耳が不自由」とか言い換えたところで、耳だけが不自由なキャラクターを「つんぼでおし」と言ってしまえば元も子もありません。

障害や障害者を題材にしてビジネスをしている北川悦吏子が、そこまで無神経だったことには驚きました。

ちなみに、その番組は飯干景子が司会の東京FMのものでした。飯干景子は「作家」と名乗っている割には言葉に無関心なんだろうし、忌野清志郎との再三の衝突で有名なPC放送局も、「放送コード」を几帳面に守るポーズをしているだけで本質的なことには取り組んでいないということなんでしょう。


そんな彼女が、再び障害者を題材にしたドラマ「ビューティフルライフ」の脚本を書きました。
今度は車椅子で生活している杏子(常盤貴子)が主人公です。

北川の「無神経」さは、今度はドラマ本編の杏子のセリフとして形になります。

「車を運転しているときだけ、私は普通になれる」

……「障害」を取り巻く環境、状況で、「普通」という言葉がどれだけ忌避されているか、そんなことはちょっとリサーチしたらわかるはずです。「ノーマル」の対義語を考えてみてください、すぐわかることです。

結局、手話も車椅子も「題材」でしかなかったのだろうし、彼女の指向していたのは視聴率などの数字や、評価だけだったのでしょう。

PC的状況を整備し、言葉そのものに差別があるかのような環境の整備にひときわ熱心に見えるテレビ局も、いわゆる「放送禁止コード」に教条主義的に執着するだけで、本質的な差別の問題とはまるで取り組もうとはしていない。そんなことの傍証だったと思います。

※イラストは、「手話」という手話。


■愛していると言ってくれ BOXセット(DVD)

さて、長々と続いたPCの話も今回で最後です。

こうやって文章にしてみてつくづく思ったのは、自分が「ゲイ」だとか「聾」ということをこれだけ考えることができるのは、結局のところそういった人たちがどれだけ身近に存在していたか、ということにかかっているのだと思います。

差別のない社会への最初のステップは、ノーマライゼーションからしか始まらないのではないか?
言うは易し行うは難し……これは、まさにそういう命題なのだと思います。



【追記:2011/09/28】
この当時、僕は「身近な存在になること=ノーマライゼーション」という認識を持っていたことがわかる。
しかし、そうした卑近な意識は、およそ中途半端というか、ある種の思い上がりだった。
今となっては、とても恥ずかしい。

当事者が一番わかっている、というのはもちろん真理だ。
しかし、それだけでは何も始まらない(拙ブログ:■想像してごらん