「ブラックホーク・ダウン」★1/5
この作品に対する評価と涙に警鐘を。プロパガンダ映画に安易に同調するのは、単なる思考停止でしかない。
この「映画」に涙するということは、構造的にパレスチナ紛争のイスラエル兵戦死者にも涙を流すことになる……という自覚がありますか?
アメリカ兵が間断なく「攻撃される」、そして延々と「殺されていく」……という受け取り方ができた人は、ある意味幸せかとも思う。
たしかに、わかりやすい形で倒され、傷ついていくのはアメリカ兵だ。
しかし、その背後には「殺しても殺しても」「後から後から」いつまでも現れ続けるソマリア人民兵がいる。どこにいるのか、どこから出てくるのか……そして、次は誰が「殺される」のか。
ソマリア民兵は、黒い肌の色を生かしたライティングの下で、表情が不思議に見えない。
井筒和幸が「あれでは(リドリー・スコットの旧作の)エイリアンと同じ」と激昂した(テレビ朝日「虎の門」)のも当然だ。ここでエイリアンまがいの描写をされているのは、同じ人間であるはずのソマリア人なのだから。
「幼い子供を撃つこと」
「黒人兵が(同じ黒人である)ソマリア民兵を撃つこと」
そうしたことをためらってみせる描写は、全て欺瞞でしかない。
ソマリア内戦にアメリカを中心とする国連軍が介入したのは、もちろんPKF(平和維持活動)が目的だった。
しかしその介入は、かえってソマリア武装勢力対国連軍という対立構造を呼び、仲裁仲介は全く逆に作用する。
そこに至り、「反米」勢力の掃討にシフトしていった米軍は、文字通り火に油を注いだだけではなかったか。
自分達の一方的な価値観で「平和」「正義」を押し付け、結果的にソマリアの内線を助長したのはどこの誰なのか。
これでは、アメリカ軍がいくら「PKF」を自称したところで、強盗殺人犯が「押し入った家で火に鍋がかけっぱなしだったので、コンロの火を止めて家事にならないようにしました」と自慢しているようなものだ。
正義の天使、ジョン・スミス君は空港で「一人の仲間も残していかない」と絶叫する。
しかし、彼に必要だったのは「我々はここに来るべきではなかった」と考えることではなかったのか。
一方的な価値観を押し付けた結果としての戦争。
恣意的な国権の発動をあくまで「平和維持活動」というお題目で虚飾する偽善。
そんな粉飾になんの感動が差し向けられるというのか。
そもそもこの「映画」が実際のエピソードを映画化した「現実」であると言うのなら、同じ「国連軍」の一員として、この現場でアメリカ兵の救出のために戦死者までだしたインドネシア軍に一切触れていないのはなぜか?
我々だけが包囲殲滅されようとしたのだ、という「悲劇の演出」だと言われてもしかたないだろう。
インドネシア政府閣僚がこの点について抗議の声を上げたニュースは、日本でこの映画が公開される遥か前に、小さくしか報道されなかった。
「プロパガンダ」という行為の存在や、手法自体を否定はしない、しかし、ことこの場合のようにエスカレートしてしまえば、それはデマゴーグですらある。
あの現場にた兵士は懸命に闘っただけ、そう「友愛」のために!
ジンシュサベツ? コッケン? そんなものは関係ないじゃないか!!
……といった言い方をする人がいるかもしれない。
しかし、彼等は任務途中にヘリコプターが撃墜され、それに際して至高の存在である交戦規程に従ったに過ぎない。
交戦規程下の兵士にとっては、敵対行動をとる存在の排除も、負傷した友軍の救出も、定義された行動でしかなく、合衆国兵士だったとしたら、誰もが同じように行動しなければならないのだ
つまり、この映画は、あの日、あのとき、そこに兵士がいたとしたら、誰に対しても課せられる「任務」を、“英雄譚”に仕立て上げたプロパガンダに過ぎない。
それを兵士個人の「友愛」といった問題にすりかえているのだから、そこにはもはや「映画」として描かれるべき物語は無い。
この作品に涙した人は、アメリカが支援している戦争であるイスラエルのパレスチナ占領ではイスラエル兵のために涙を流し、自爆テロを繰り返すパレスチナ人をエイリアン扱いしなくてはいけない。
人に必要なのは、「正しい」戦争に涙することではない。
人の命に涙すること、人を人として捉え、受け容れることだ。
アメリカの「正義」に盲従する限り、人は、これからも「正しい」戦争、「演出された」戦争を見せられ続けることだろう。
そして、それは今もイスラエルでおこっている。
対パレスチナ戦争を、アメリカの国務長官は「ミリタリーオペレーション」と呼び、イスラエル政府報道官は「キャンペーン」と呼ぶ。
──ホロコーストに大小は無い。ジェニンでは何がおこったのか?
この作品が「対テロ戦争」の延長戦上にある、ソマリア攻撃の地ならしのためのプロパガンダではないことを祈りながら(2002/04)