守るべきもの

casa_kyojin2005-06-25


F1アメリカGPはとんでもないことになった。
ブリヂストンユーザー3チーム6台だけの出来レースは、なんとも寒々しく、史上最低のグランプリだった。

その後、ミシュランユーザー7チーム(+ミナルディ)はFIAを非難。FIAミシュランを非難。泥試合が水掛け論になってしまった今、これがどんな場所に着陸したとしても、誰一人スッキリした気分にはなれないだろう。

FIAは、レギュレーションという錦の御旗でミシュランユーザーの無法を糾弾する。
しかし、スポーツのルールというものが何のために存在するのか、何を守ろうとしているのかを考えると、彼等の杓子定規ぶりこそが、スポーツそのものからかけ離れていることが見えてくる。

例えば、我々の属している社会の根幹を為している「法律」は、条文を逐語的に運用するためではなく、その法律の存在によって守られるべきものはなにか、という原則(法益)で動かされている。

それでは、F1のレギュレーションにとっての「法益」は何か?
もちろん「公正なレース」と「安全」だろう。

今回のミシュランタイヤの性能不足。これはもちろん「安全」を欠いた。
それに対する「シケイン設置」という提案は、欠除してしまった「安全」を補うという根本目的にはかなっている。
そしてそれを、対抗するトヨタも承服した。
しかし、FIAは条文を盾にとり、それを許可しない。
ミシュランは(あるいはブリヂストンも)本質である「安全」を求めた。FIAは規則を遵守することだけにこだわった。
そのどちらに「安全」が、「公正」が、そして「人」がいたのかということだ。

また「シケイン」について、エントラントでは唯一、フェラーリチームも反対することになった。
シケインを設置する事で、特定の誰が損をするというのだろう? 身近な例を引けば、安全対策のためにシケインが設置された直後の鈴鹿で、富士で、どこのだれが不当な不利益や、危険を被っただろうか。
イコールコンディションで発生する不利益にアンバランスがあるというのなら、これは無理を通せばナントヤラ、にしかならない。

こうなると、FIAが愚直にレギュレーションを振り回していたとは思いづらくなってくる。
彼等の「法益」はどこにあったのか?
特定チームの「利益」にあったのではないか、とまで思えるのはそういう経緯があったからだ。




そんなFIAは、これからもとにかくミシュランのタイヤ性能の不備、ミシュランユーザーの事実上のレースボイコットというところをついてくるだろう。
しかし、それだけではこの事件の全体像は見えてこない。

結局のところ、2008年開幕を目指している新F1とも言うべきGPWC(グランプリ・ワールド・チャンピオンシップ:FIAマックス・モズレーバーニー・エクレストンらの専横に対抗して、自動車メーカー系のF1チームが一致団結して立ち上げた団体)と、FIAの軋轢、綱引きが根本にあることが、このアメリカGPを伏魔殿にしてしまったということだ。
GPWCFIAのどちらか(あるいは両方)が、その政争をグランプリウィークに持ち込んでしまった。


もちろん、今回性能の足りないタイヤを持ち込んだミシュランは大失敗、大失態だ。
しかし、これがタイヤ交換が可能だったらどうなっていたことだろう。
となると、今季のレギュレーションの「改悪」にも、原因の一端を求めることができる。
「コストダウン」のためという1エンジン2グランプリルールは、表面上は用意するエンジンの絶対数の削減になったかもしれないにしても、かえってエンジン寿命の延長のため、さまざまなコストを要求することになった。
「性能を抑制」するためのタイヤ交換の禁止は、レース終盤でのバーストといった、「危険」をドライバーにもたらしたりするだけだった。


これまで、FIAは「ファン離れ」「テレビ視聴率」の対策のために、フェラーリの独走を止めたがっているようにも見えていた。
そのために無手勝流でレギュレーションを変更。それは往時のベネトン叩きのような「フェラーリ叩き」のようでもあった。

しかし、今回の騒動で、フェラーリFIAの蜜月は「新コンコルド協定承認という裏切り行為でGPWCから脱退したことで証明済」という水面下の事実が、かえってあからさまになったということだ。
昔はヨーロッパ・クラブと呼ばれたF1界は、いまやFIAフェラーリトロイカになってしまっている。

フェラーリ贔屓のFIAは、B・A・R HONDAの足も引っ張ったし、こんどは十把一絡げでミシュランユーザをたたき出した。
もちろん、このミシュランユーザーの集団ボイコットが、FIAの予想したこと、望んだことではないと思う。
しかし、とにもかくにもフェラーリにポイントをとらせたかったFIAのイヤラシサが、たった6台の寒いレースを実現したのだ。

そして、その横車に対抗したミシュランユーザー7チームにしても、「安全」を旗印にしていたからといって、スポーツマンシップだけに立脚していたということはあり得ない。
アンチFIA、裏切り者(フェラーリ)許すまじとの団結が、GPWCの結束を強くすることになった側面はなかっただろうか。


事ここに至ると、オーガナイザーとエントラントの対立に置き去りにされてしまうのはファンだけ、ということになってしまう。
野球の大リーグ、日本のプロ野球のスト騒ぎといった身近な例を思い起こせば、これから起こりうる事に明るい未来は見つけにくい。

それに、裏切り者はフェラーリだけではない。
複数のソースによると、出走するのはシケイン設置に唯一反対していたチーム、フェラーリと、ただ二人反対していたそのドライバー、シューマッハーバリチェロだけのはずだったのだ。
ところが、ジョーダンはギリギリになってレース出走を表明。
そこで苦渋の決断をしたのがミナルディだ。代表のポール・ストッダートはスタートまでのわずかな時間の間で、ハムレット的選択を求められ、最終的に「もしジョーダンが中止したりリタイヤしたら、ミナルディの車もレースを棄権する」という妥協をしながらスタートに踏み切ったという。
今思うと、真っ先に、それも不自然に早いピットインをしたミナルディにはそんな事情もあったのだろう。

地上波の実況は、しきりとブーイングを繰り返したり、なにか書面をカメラに掲げてアピールしてみせるミナルディチームに「?」という態度だったけれど、つまりはこういうことだったのだ。


想像してみてほしい。
全てのチームが事前協議を尊重し、フォーメーション後にピットに戻ったことを。
フェラーリの二台だけがスタートすることを。
そしてあのとき、第一コーナーで赤いマシンが絡んで、二台ともリタイアしてしまう、という結末を。

彼等のしたことは、つまりはそういう「結末」を内包していたということだ。
これはもう、スポーツではない。



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