蜂の巣奇譚

casa_kyojin2006-07-15


我が家のベランダの手すりに、クマバチが巣を作ってしまった。

コォリ、コォリ……といった音が昼夜無く聞こえ、おがくずのような木屑がバラバラと落ちていたから何かがいるのはわかっていた。
でも、まさかハチだとはなあ。

こんな巣(上画像)を作るハチがいるとは夢にも思わなかった。


このクマバチ、強力なアゴで枯れ木や家の木材に穴をあけて巣穴を作り、内部には木屑を固めてパーテーションまで作るらしい。
そして、メスは巣の中で花粉団子を作り、そこに産卵するという。

階下の大家さんの庭には、カーポートの屋根をすっかり覆い尽くしてしまうほどのリュウゼンカズラの大株があって、花ざかりの今、クマバチが♪ブンブンブン〜と飛び交っている。


僕は、子供の頃一度ハチに刺されたことがある。
なので、アナフィラキシーショックが気がかりになってしかたがない。

調べてみたところ、クマバチ自体はとても穏やかな気性で、“めったに”刺すことはないらしい。
しかしその刺す場合というのが「うかつに巣のそばに近寄った時」というから困ってしまう。
折しも夏、ベランダでは毎日のように洗濯物を干している。

命の危機となると、安全保障の問題になってしまい、自然保護みたいなことも言ってはいられない。

ところがこのハチ、ハエたたきでベチベチたたき落としても、全く効果がない。
ダメージがまるで無いかのように、あっという間に復活してしまう。

なので、これは本当に禁じ手なのだけれど、エアソフトガンを使ってしまった(銃自体はもちろん合法のもの)
グレーゾーンの使用法だけれど、「緊急避難」ということで赦してもらうしかない。

マガジン二つを撃ち尽くす頃、ようやくハチは文字通り四散して、ベランダは静かになった。


ところが何日か後、ベランダが前よりもさらに盛大に花粉で黄色くなり始めた。
どうやら元の巣穴に別のメスが入り込んで、リフォームを始めたらしい。

そして、数日後──足もとに直径一センチ強の黄色い丸い塊が落ちていた。
図鑑で見た「花粉団子」そのものだ。
そして、傍らでは象牙色の幼虫が日差しの熱さに耐えかねて蠢いていた。
新しく入り込んだメスが、僕が駆除したメスの幼虫を巣穴の外に放り出したのだ。

僕は「見えざる手」に首根っこをつかまえられて、「自然」というものの深淵を無理矢理覗きこまされたような気がした。
人がアナフィラキシーショックの危険を避けるためにハチを駆除したことと、ハチが自分のではない幼虫を排除するのも、自分の遺伝子を守るため、という点では同じかもしれない。

他の種の駆逐と、同種間で行われる排多を、同列で論じることには違和感もある。
しかし、これは「利己的遺伝子説」といって、最近よく取り上げられるようになった学説なのだそうだ。

──全ての動物は遺伝子の乗り物に過ぎず、そして遺伝子はあくまで利己的に自分の遺伝子の存続と増殖のことしか考えない

つまり、ゾウやクジラ、シャチが集団で子供を守ることも、ボスが交代したゴリラのコロニーで新ボスはもちろんメスたちまでが競って旧ボスの子供たちを殺戮するのも、利己的な遺伝子が自分を守ろうとしているだけ、という説明がつくというのだ。

なんとも殺伐とした考えのように思えるけれど、万物の霊長の人間様だって、どうだろうか。

継子に対する虐待は、ちっとも珍しくない。
さすがに殺人にまで発展するのは稀にしても、何かがスポイルされてしまうことは往々にしてある。

そう考えた時、ハチやゴリラに対して、ヒトが万物の霊長であると、どれだけの人が言い切れるだろう?

しかし。自然界にそんな深淵があったとして、それでも人は人であり続けるしかない。それこそが人間の「業」なのだろう。
英語では「業」のことを "nature" と表現するのはなんとも皮肉だな、と思った。



ある時──僕と恋愛関係にあった女性には既に息子がいた。

僕は彼の父親になりたかった。
例えそれが感傷に過ぎなかったにしても、そのときの僕は至極本気だった。
しかし、彼女は「この子は私だけの子で、誰の子でもない」という姿勢を決して崩さなかった。
それはもちろん、彼女の元夫に対する強烈な拒絶からきていたことだった。
そして、僕の存在に対する部分的な否定にもなっていた。

彼女との関係性は、他の様々な“現実”の介在もあって長続きしなかったのだけれど、そんなふうには「自然」なことだったのだろう。


オスとして否定されることには、一個の人間として否定されることとはまた別の悲しみがあった。
ある意味、嫌われるよりもずっと悲しいことだったのかもしれない。


■岩明均「寄生獣」完全版(1)

クライマックスに至るシークエンスで、利己的遺伝子説をサラっと解説していたのが、この漫画。