「1Q84」とブルース・リー

casa_kyojin2009-06-14


村上春樹の12作目の長編、「1Q84」を読了しました。

アマゾンに予約したタイミングが遅かったので、ちょっとドキドキすることになったけど、発売日当日に到着したのでまあ良しとしましょう。

でも、大手書店のフライング販売は──ガッカリしました。



さて、序盤、僕は青豆(脳内キャストは菊池凛子)というキャラクターにどうしても感情移入できませんでした。
長編の村上作品の登場人物で、ここまで嫌悪感を持った存在は初めてです。

もっとも、これは村上作品的な“仕掛け”なのかな、という気がします。

なにしろ彼女はアサシンのわけです。
最初は読者に正体不明の緊張感とか、心理的な“ささくれ”みたいなものを、あえて感じさせる。

で、だんだんと学生時代の環とのエピソードなんかを持ってきて、一転してシンパシーを持たせるようにする、と。

──じつに上手い。


もちろんこの作品には、暴力や恐怖といった人間にとっての深淵がテーマとして、基調低音として奥底に一環して流れ続けてはいますが、そんなふうにエンタテイメントとしての切り口をキッチリと見せているところが実に“上手い”のです。

村上さんはもちろん、自分の中の地下水脈──どころか、マントル対流からドカンと火山の噴火をさせてると思います。
そのエネルギーの本質とは、おそらくは彼が常に掲げているシステムと個(壁と卵)の問題だったり、人間の暴力性だとか、恐怖というものに対する認識でしょう。

でも、なんかこう“上手”なわけです。
小説として、とにかくこなれている、洗練されてる。
決してエネルギーが意図せずダダ漏れなんてことは無い。

もっとも、それではデビュー作から連なる「三部作」がそうしたダダ漏れだったのかというと、決してそんなことはないと思います。
村上的抑制は若い頃から変わらないとして、語り口に(決してそれとはあからさまではない)技巧が加わった、といったところでしょうか。


また、多くの人がその存在に言及している“スターシステム”については、表現やギミック、エピソードから登場人物に至るまで、再登場の嵐だったことにちょっと驚きました。
まあマニアとしてはそういうのはうれしいわけですが、まさか村上さんが──それをやるとは、と。

もっとも、そうした傾向は「スプートニクの恋人」あたりから感じ始めていたものです。
でも、今回のボリュームは圧倒的で、そして完成度が高い(上手い)

とまあそんなわけで、僕には村上さんの語り手としての豊かな能力や老獪さに膝を打つばかりで、なかなか物語の本筋や本質に気持ちが入っていけなかった、というのが最初の読後感でした。

阪神の金本が変化球をホームランしたとき、打球の行方よりも、彼の腕のたたみ方や膝の曲げ方に目が行ってしまう──といった感じかもしれません。



もう一つ感じたのは、安原顯(小松、ではあるけれど──脳内は柄本明)が出てくることからも、この小説は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や「ねじまき鳥クロニクル」のような成り立ちにはなっていないのだろうな、ということです。

──あのエピソードは生々しすぎます。

だから、片輪だけであっても純文学の地平から脱輪してしまう。
でも、こんな重い小説でそうした“リアル”なことをサラっとやっておきながら、キッチリまとめあげるというのは、やっぱり“上手い”わけです。

村上春樹のそうしたバランス感覚には、感心するしかありません。



ところで、「1Q84」の話題の喧々囂々がどうにも耐えきれず、一時的に退会したmixi村上春樹コミュニティでは、“解釈論”が百花繚乱です。

特に、スターシステムの登場を、この作品が村上さんの絶筆になるからだ──という説の多さには閉口しました。

僕自身は、このスターシステムの重用は、村上さんが技巧として、意識の問題として、それを使いこなせるようになったから──という現実的でシンプルな問題だと捉えていたので、そうした解釈は“トンデモ”としか思えませんでした。

それどころか、今回のスターシステムには、“解釈論”だとか“解釈本”のようなものに対するアンチテーゼとしての役割があるようにも感じているくらいです。


村上朝日堂のWebサイトが開設されていた当時、村上さんは再三「村上春樹イエローページ」的な“研究本”の存在に嫌悪を表してました(「なんで十二滝村がトニー滝谷になるんだか……」といった調子で)

今回の作品は解釈論を差し挟む隙間が無いくらいに、青豆は電話帳をめくるし、小松はヤスケンだし、牛河は転職して? 再登場する──というシンプルな直球だったと思います。

ところが、スターシステムの登場をある種の“喜んだ”重度のマニアたちの中には、そうした“ファンサービス”としての側面もあるキーワードや演出の頻出をして、「難解な作品」だと言ってみたり、「この作品のテーマは──」といったトンデモ系の記号論、解釈論、為にする論……を振り回したがる人が少なからずいます。

でも、僕に言わせると、この小説は圧倒的な力を持った一級のエンターテイメントであったとしても、それ以上でもそれ以下でもありません。

もちろん、SWとかハリポタのような“娯楽作”だというわけではありません。
しかし、「白鳥の湖」だって「マクベス」だって、それもまた一つのエンターテイメントなわけです。

素直に「感じた」とき、この作品の持つ圧倒的な力の存在は、その人の心を揺さぶるでしょう。
でもそれは、決して“感動”だなんて生易しいものではありません。

例えば僕は、恐怖や絶望、諦観を感じさせられることになりました。


もっとも、そうした“トンデモ”論も、発売前に「主人公は神経ガス兵器の研究に携わることになる信者」なんて“予想”を展開した「WIRED VISION」や、「宗教に対する配慮が足りない」とか「セックス描写が多いから嫌だ」といった脊髄反射的感想よりはまだマシという気がしないでもありません。

なにしろ、天下の東大教授までが「『1Q84』は『魯迅に捧げる中国色溢れる作品』」──だなんて言い出しているのだから大変です。

曰く「1Q84」では、タイトルの「1」がアルファベットの大文字「I」につながり、「Q」は名前。つまり「『私はQ』」と、「阿Q正伝」との“関連”を指摘しています。

でも、Qひとつでそんなことが言えるなら、それじゃあ「ウルトラQ」は怪獣と戦うQの話だろうし、「オバケのQ太郎」は処刑された恨みでオバケになったQが餓鬼道に入り、丼飯を食べ続ける話──なんてことになってしまいそうです。


解釈論に忙しい人に、今さら思い出してほしいのはブルース・リーのあの言葉です。
「考えるな、感じろ」──と。



■1Q84:BOOK1

Amazonでは「入荷次第発送」、楽天ブックスでも「重版予約」──文芸書離れした売れ行きにはただただビックリです。


村上春樹はかつて、村上龍に「一度くらいミリオンセラーを書いておくといい」といった意味のことを言われたといいます。
そして曰く、「ノルウェイの森」のその後に、いろいろと納得させられた──とも。

日本がバブルに雪崩れ込んで行くあの時期、あの小説はたしかにある種の購買層への訴求力を持っていました。
そしてその“購買層”の多くは、決して“村上読者”とは相容れない層でもあったわけです。

少年カフカ」の売れ方にしても、やはりそうした乖離が存在していたとも思います。

しかし、それでもなんでも、ノルウェイ──は、──カフカは、手に取るべき人、読むべき人の元に届いたと思われる節があります。


しかし、今回はどうでしょうか。

僕はこの作品の購買層が、ノルウェイ──のように、──カフカのように、「セックスの話」「サブカルじゃん」「セカイ系だよね」……といった表層的な理解や、幼稚なステレオタイプを振り回す人たちによって多く占められているようにも見えないのです。

あるいは──80年代の「ニューアカ」ブームの頃、「構造と力」や「逃走論」を手に取った層に近いのかな、というのは今まさにこの文章を書きながら思ったことですが。


■ヤナーチェク:シンフォニエッタ
作中に登場することから、これまた“売り切れ状態”“急遽増産決定”と報道されている、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ
こちらはAmazon楽天共にまだまだ手に入るようです。

■村上春樹さんの「1Q84」、100万部を突破 発売2週間で

新潮社は9日、作家村上春樹さん(60)の新作長編小説「1Q84」(全2巻)の発行部数が、発売されてから約2週間で、1、2巻を合わせて100万部を突破したと発表した。

新潮社によると、内訳は1巻目の「BOOK1」が56万部、「BOOK2」が50万部。初版部数はそれぞれ20万部と18万部だった。発売前から書店からの注文や予約が相次ぎ、連日増刷を重ねて9日で8刷になった。

同社の担当者は「全国的に書店で品切れ状態となっているが、11日以降に増刷分が市場に出回る見込み」と話している。〔共同〕