mixiアプリに疲れました

casa_kyojin2009-12-18


mixiに、ゲームなどを提供する「アプリ」というサービスが登場したのは2009年8月のことだ。

その結果として、自分の書いた日記の一覧はトップページに表示されなくなった。
来年早々には、マイミクやコミュニティの一覧の表示も縮小されるという。


僕自身は、アクティブに活用しているアプリはひとつも無い。
どうにも時間がとられてしまうし、アプリを充分に動かせるパソコンも常には用意出来ないからだ。

そしてなにより──“アプリ疲れ”を感じるようになってしまったことが大きい。


3年前、“mixi疲れ”という言葉を聞いたときは、全くピンとこなかった。


曰く──

「私はこの人とマイミクなのだから、友人らしい振る舞いをしなくては」と、足あとを付けたり、日記にコメントする。
しかし、マイミクが増えてくると、足あとやコメントを付ける“作業量”の多さがストレスになってしまう。

逆もまた真なりで、自分の日記にコメントが付くと、相手の日記にもコメントを返す。
そしてそのコメントにもコメントが付き……というサイクルが延々と繰り返されることになる。

──そうして、人は“マイミク疲れ”になってしまうのだという(■ITmedia NEWS「『mixi疲れ』を心理学から考える」:2006年07月21日)


そして、アプリにもまた、同じ構造が持ち上がってきたようだ。


サンライズ牧場」「みんなの農園」といった育成系のアプリは、自分の農場などを訪問してくれるマイミクの存在が大きなファクターになっている。

誰かが作物に水をやってくれたら、こちらも虫退治に行かなくてはいけないかな、という気になる。
ロクに手伝ってもくれないマイミクが、こちらの作物を収穫して行くばかりだと、どうにもやるせない。

マイミクとしての“役割”を自認しながら、決して少なくはないマイミクの農場を巡回する作業は、時間もかかるし、実にストレスフルだ。


また、多くのアプリが用意している「マイミク◯人に招待状を送ると◯◯をプレゼント」といったキャンペーンの存在もまた、悩ましい。

アイテム欲しさもあるのだろうけれど、多少は好意もあって招待してくれたのかな──なんて認識が、アッサリ裏切られたことがある。

あるマイミクさんと顔を合わせたとき、アプリの招待状をいくつも送ってくれたことに礼を言い、すっかりアプリ上だけのやりとりになってしまっている無沙汰を詫びた。

しかし先方は、僕とロクに目も合わせようとはせず、「別に全然絡んでないですから」と言い捨てた。

こうなると、もう何のためのマイミクなのかわからない。
経験値稼ぎや限定アイテムのためだけに利用されていたという事実は、とても悲しかった。



みんなの農園」では、アプリを削除しても、畑はしばらく残ってしまうので、乾いてひび割れた土の上に、枯れ株が並ぶ畑を眺め続けることが往々にしてあった。


しかしそれは、そう遠くないmixi自体の将来の姿かもしれない。

日記のアップやコミュニティへの書き込みには減少傾向を感じるし、開店休業状態のコミュニティはどんどん増えている。

そうした停滞のファクターのひとつは“mixiアプリ”疲れと同様の、コミュニケーションの濃密さと、そこから生じるストレスだろう。

そんな閉塞感が、今やmixi全体を取り巻いている。


かつて、インターネットに乗り遅れたNIFTY-Serveは、ゴーストタウンと化したフォーラムの“残骸”をさらし続け、その枠組みや交流の総体がWebに引き継がれることは無かった。

しかし、その内部でのやり取りや人間関係の“濃密”さや、排他性といった否定的要素は、往時を知る人なら容易に思い出せることだ。

ニフティの終焉には、そうしたダークフォースも一役買ってはいなかっただろうか。



それでも、mixi自体にはまだ可能性が──あったと思う。

例えば、マイミクという概念、そしてコミュニティでの交流の存在は、最近急成長してきたTwitterには無いものだ。


しかし、その独自性は、どちらもアプリの台頭によって、肩身の狭い存在へと押しやられた。

自らの“個性”を否定し、おそらくは目先の収益性が高く、モバゲーのような、GREEのようなアプリに力を注ぐmixi


Twitterの急激な勃興と、mixiでのアプリ偏重への転換の時期が重なったことは、何かの象徴かもしれない。


1996年には会員200万人を突破したNIFTY-Serveは、2006年にすべてのサービスを終了した。

mixiの会員は、現在1,800万人ともいわれる。
インターネットが社会インフラとなった社会情勢もあって、そこまで急速な“滅亡”を迎えることはないだろう。


しかし、「mixiやってます」という言葉がキラキラしていたころのオーラは、とうの昔に失われてしまった。

あの頃、本当にそういう時期があったのだ。


■林信行 野田幾子「mixiの本」

mixiのサービス開始は、2004年2月。
確認できた一番最初の関連本がコレ。出版は2005年3月。

雨後の筍のようにmixiが出版されていたのは2007年頃。
ユーザレベルでの“引き潮”ムードがとっくに始まっていた頃だけれど、会員数やアクセス数といったデータを旗印に、“コラボ”という名の広告企画などの“切り売り”が活発化していった時期ともイメージ的に重なる。

──こうした関連本の古本相場は、軒並み1円ナリ、といったところ。

mixiの会員数は、重複や塩漬けになったIDの存在で、実数が反映されていないと再三いわれているけれど、こんな市場価格の方がよっぽど実態を反映しているんじゃないだろうか。

そういえば、足あとスパムやスパムメッセージを、最近ほとんど見なくなった。
当局の対応の成果──だけとは思いにくいのはそのへんだ。



■勝間和代 広瀬香美 「つながる力 ツイッターは『つながり』の何を変えるのか?」

2006年7月にサービスが始まったTwitterは、2007年早々から関連本の出版が始まった。
タケノコ状態が始まったのは2009年。
Twitter界の“二大スター”が連名で出版するこの本の発売はもうすぐだ(12月20日

ちなみに──Twitter関連本の古本相場は、古いものでも軒並み数百円落ちといった高いレベルを維持している。