本末転倒の規制が抱える偽善
こんな欺瞞、偽善も無い。
曰く、ハイブリッド車は、発進時などの電力走行時に静かなので危ない──だから、静音時の人工音を義務付け、その危険性を回避するという。
いかにも歩行者の安全性に配慮したかのような、お上の物言いだけれど、プリウスやインサイトが人工音をバラまきながら走れば、歩行者が安全になるというのは、あまりにもナイーブな、半可通の意見だ。
これでは、ハイブリッド車や電気自動車(EV)──そして総体としての自動車が、歩行者の脅威となる“根本的な理由”を一切顧みていない。
こと低速走行に限らず、自動車が、歩行者などの交通弱者にとって脅威になっているのは、自動車や自転車、歩行者といった種々雑多な交通モードが、混然一体となって狭い道路に押し込められている道路行政、道路事情が持たらしている帰結にすぎない。
歩行者と自動車の交通モードが、バイパスと生活道路、車道と歩道、あるいはスクールゾーンなどによって安全に分断されていれば、無音で低速で走っている自動車が、それも“低速で走っている状況”で、交通弱者にとっての脅威になることは、そうないだろう。
問題の本質は、あくまでも自動車が通学路にも生活道路にも、商店街にも入り込んでいる現在の交通モードにあるのであって、ハイブリッド車やEVの静粛性には無い。
これまで道路行政が蔑ろにしてきた交通モードの分離という、歩行者の安全にとって必須の命題が、ハイブリッド車の普及をスケープゴートにして、問題の本質をすり替えられてしまったことこそが、大きな問題なのだ。
そもそも行政が、盲人を対象にした“ハイブリッド自動車の静音性の体験会”を開催した、というパフォーマンス自体、その欺瞞を満身に表している。
──それでは聾者は、後ろから近づいてくるハイブリッド車に気づけるのだろうか?
そんな行政のギミックは、盲人を利用し、物事の本質をごまかしたにすぎない。
ユニバーサルデザインの本質を考えたとき、健常者も、盲人も、聾者も、全て歩行者と自動車の交通モードが分断分離されることこそが、安全のための必要条件なのであって、健常者と盲人だけがある種の“やっつけ仕事”の恩恵にあずかったところで、交通モード全般の利益からはあまりにも遠い。
それでは、増加傾向にある自転車と歩行者の交通事故の増加をどう捉えるのだろうか。
車道を通ることを義務付けられている自転車が、往々にして歩道を通る道交法違反を犯さざるをえない現状は、彼らもまた、交通弱者としての迫害を受けているからに他ならない。
それもまた、交通モードの未分化による弊害なのだ。
重ねて言う。
問題は、日本の歩行者の交通モードが、自動車との混在併在を強いられていることにあるのであって、ハイブリッド車やEVの静粛性にあるわけではない。
国交省がこうした取り組みによって、歩行者の安全を脅かしている本質、交通モードの未分化状態を隠蔽、頬かむりし、あたかもハイブリッド車やEVが、あたかも降って湧いた悪玉であるかのように言い立てるスリカエを行うことは、交通行政を、歩行者の安全を、何十年というスパンで後退させるだけだ。
安全は有音にあるのか、無音にあるのか、そんな二元論は体のいいゴマカシでしかない。
もし、無音が危険なのであれば、ハイブリッド車どころではない、自転車も、歩行者も、キックボードも三輪車も、行動では騒音を振りまいて通行しなければいけないことになる。
EUなどが提唱している騒音規制が、タイヤのパターンノイズまで俎上にしている今、たとえ低速時に限ったこととはいえ、騒音を“増やせ”というのはあまりにもナイーブで、時代に逆行した取り組みだろう。
■ハイブリッド車などに“人工音”を義務づけ(日テレNEWS24 - 12月25日)
ハイブリッド車や電気自動車の普及に伴い、エンジン音がないため、近づいてくるのに気づかない危険性が指摘されていることを受け、国交省は、低速時に人工的な音を発生する装置を設置することを義務づけるなどの報告書案をまとめた。
それでも──そんな子供じみた規制が義務付けられたらどうしようかな。
竿竹屋のアナウンスとか、灯油の宅配のメロディーでも流そうか。
もちろん竿竹も灯油も、焼き芋も売り歩かないし、粗大ゴミも回収しないけど。
とかく世間はプリウスだらけ。
「パパの車」への需要が根強く存在するトミカも、歴代プリウスをしっかりラインナップしている。