“ケータイでネット”という階層化社会
──デコ電は、セカイを守るヨロイ
我が家のデジタルネイティブが「高3になって、受験ばかりでお先真っ暗」とある日言ったので、大学に入ったら、テレビで話題になっている「スマートフォン」の最新式を買ってあげるから、と慰めるつもりでいうと、
「いらない、スマートフォンなんて喜んで買ってるのは年寄りばかり」
と言いかえされて、なんたることか! と思った──(クマムラゴウスケ:■Everything is so curious.)
この高3女子の、スマートフォンに(そして返す刀でTwitterにも)向けられた評価が、なかなか手厳しい。
曰く──
「スマートフォンが本当に必要な人ってそんなにたくさんいるのかな、いつもどこかの誰かとつながる機能なんて必要?」
「携帯に私たちが求めているのは主にメール機能で、スマートフォンは画面で操作しないといけないから、早くメールが打てない」
「友達でもスマートフォンを持っている人もいるけど『使いにくい』って不評だよ、片手では打てないし」
「ボタンの感触、って大事なんだよ、わかってないなあ」
「私たちはTwitterも多分しないよ、なんの意味があるのかわからないし」
「手のひらに世界なんて無い」
「出来る人はいるんだろうけど、そんな人ばかりじゃないでしょ」
彼女のこうした指摘は、たしかに一面の真理だ。
例えば僕は、かれこれ4年来のスマートフォンユーザーだけれど、これは職業的必然性に定義された状況であって、主体的な選択では無い。
外出先でWordやExcel、PDFといったファイルのため、いつでもどこでもパソコンを持ち歩く苦役の代わりに、携帯電話としては“難のある”大ぶりな端末を持ち歩く“消極的な選択”をしているだけだ。
それに、端末の代金も、料金プランも、通話とメールだけのものよりは高くつく。
重い、使いにくい、高い──あえてスマートフォンを持ちたがる高校生や大学生がいなくても、当然という気もする。
とはいえ、彼女のスマートフォン+Twitter批判には疑問もある。
彼女の批判は、主に「タッチスクリーンで操作する必要があり、メールを片手で打ったり、早く打ったりできない」という点に向けられている。
なるほど、若い世代がケータイでメールを打つスピードは、尋常ではなく速い。
しかし、メールというものは、果たしてフリック入力もついていけないほどのスピードで、入力しなければいけない必然があるのだろうか?
ケータイの主要なスペックにメールの入力スピードを要求していることから透けて見えるのは、彼女たちの世代の一部にある、短時間に無数のメールが飛び交う、“即レス”が基本、といった“超速メール”の媒介で成立しているインナーコミュニティだ。
TwitterやおそらくはSNS的なものの総体を「いつもどこかの誰かとつながる機能なんて必要?」「手のひらに世界なんて無い」と捉えていながら、“自分たちのセカイ”という限られたコミュニティとは、常につながっていなければいけない矛盾──
となると、彼女のスマートフォンやTwitterへの忌避、ヘイトの強さの本質も見えてきそうだ。
つまり、彼女の「手のひらに──」という言葉は、ソーシャルネットとしてのIT社会の有り様を批判しているのではなく、非自分、非セカイとしての社会一般を all or nothing的にも、疾風怒濤的にも全否定している──ということなのだと思う。
もっとも、それこそ就職活動で、企業サイトへのアクセスや、ファイルのやり取りが必要になったことで、スマートフォンに乗り換える大学生もいたりする。
もちろん、そんなふうに社会の“現実”と折り合いをつけるケースは、あくまでフェイズのひとつであって、スマートフォンやTwitterが、=現実社会というわけではないけれど。
さて、筆者は、以下のような結論に至っている。
つまり、ネットやパソコンは、電話やテレビみたいなものでしかない、かつて、テレビや固定電話は「新しい時代」の希望に充ち満ちたものであった。
と、それが当たり前にあった世代の私は親から聞いていたわけだけど、実際、それがあったから世界がどうなったか、と言うと、まあ、基本的に人間の営みってそうそう変わるものじゃないものね、「便利」にはなったけど、「無限の可能性」ではなかった、
親世代がそこそこネットやパソコンを使えて「デジタルネイティブ」の名称を与えられている子どもが「ネイティブ」である所以とは、その便利さが「当然」である、と同時に過度な期待は抱かない、そういうもんなんだろうな。
この「そういうものだろうな」という観測は、どこか達観しているような潔さがあり、受け入れやすい。
──しかし、肝心なことが抜け落ちている。
それは、パソコンやネットは、電話のように、テレビのようには“国民全体のインフラ”にはなりえない、という大前提だ。
なるほどクマムラ家のお嬢さんは、“デジタルネイティブ”で「パソコン自体やソフトの扱いは、父親を抜いてこの子が一番詳しい(引用)」という環境にあるのだろう。
そして、その上で「過度な期待」を持たずに達観している。
しかし、ネット社会全体には、電話のように線に繋いだだけで着信は来ない、テレビのようにスイッチひとつで番組を見られるわけではない、という、デジタルデバイドという不可避の問題がある。
そうした“情報の下流”にとっては、過度な期待をするもしないも、ネット社会の利便性や恩恵を充分に受けられないのが現実だ。
例えばケータイだけでネットを利用しているという層は、決して少なくない。
同じコンテンツにアクセスできないくらいは物の数ではないけれど、パソコンからのメールを一切受信してもらえないとなると、いつのまにか疎遠になってしまったりもする。
そうしたデタッチメント、ディスコミュニケーションは、そのユーザーが主体的に選択しているだけではないだろう。
村上春樹は、IT社会を「コンテンツを利用する側と、そのデータを入力し続ける側」の二極分化が進む社会と捉えていた。
そこに加えて、ネット環境がパソコンなのか、ケータイ“だけ"なのか、という断層の形成は、一つの疎外状況として存在し始めている。
デジタルネイティブがケータイをどう捉えているか、という問題はそれ自体とても興味深い。
しかし、デジタルデバイドや、“弱者のインターネット”としてのケータイという存在への認知が無いところで、“その便利さが「当然」である、と同時に過度な期待は抱かない”という論を展開しても、上から目線にしかならないだろう。
情報的な階層化社会や、様々な断層の形成は、これからもどんどん進んでいくだろう。
しかし、今の段階で“そういうものだ”と達観してしまえば、弱者は打ち捨てられたままになってしまう。
ケータイやスマートフォンには、ある種のユニバーサルデザインとして、もっともっと便利に、手軽になってほしい──そんな期待を僕はしている。
電話が黒電話では、テレビが真空管の白黒ではありつづけなかったように。
■Apple iPad(USA版)16GB Wi-Fiモデルかの“ハイパー”高城剛のエリカ様への誕生日プレゼント──
親しい人への誕生日プレゼント程、頭を悩ますものですが、今年は、タイミング的にも早くから決めてこれにした!
iPad(64G)。
きっと次のステージは、ここだろう。(高城剛のブログ)
──iPadには、いったいどんな“ステージ”が期待されているのか。
僕が思い出したのは、初代のiBookに用意されていた“取っ手”の存在だ。
AirMacの装備と同様、その意味するところは「家の中のどこでも使える」ということだ。iPadもWi-Fi版からリリースされるように、家の中でどこでも──という用途がメインのような気がする。
でも、特に日本では、モバイルでの使用で「キーボードが無いのはやはり不便」とか「マイクロSIMの供給はどうなるのか」みたいな話(というか、あげ足取り)が出てきそうだ。
それこそ──“小脇に抱えられる世界”なんて無いし、“無限の可能性”なんてものもない。
メディアが自分たちの商売のため、空気を煽りすぎる傾向は確かにある。
でも、ユーザーも過度な幻想を持ちすぎなんだろう。それはあたかもバラエティ番組に一喜一憂し、そのお約束の世界で充分に楽しませてもらっていながら、ひとたび台本や演出の存在が明らかになると、“ヤラセだ”とバッシングを始める滑稽さにも似ている。