「1Q84」コミットメントとデタッチメント
──「1Q84」BOOK3、発売日に一晩で読了。圧倒的な魅力、地力のある作品として、疑いありや。
村上春樹の小説は、群像新人賞を与えた出版社の担当者に「こんなのは小説じゃない」といった批判をされたことを皮切りに、その後も同種の誹謗にさらされ続けた。
しかし、文壇からどれだけ冷ややかに遇されても、彼の作品にはファンからの根強い支持があった。
それは、「小説ではない」といった批判をどれだけされようとも、そこには本質的な魅力としての"something"があったからだろう。
村上春樹その人、その作品が、メジャーな存在になるには、「ノルウェイの森」の登場を待たなくてはならない。
そして──押しも押されぬ大ベストセラー作家に、引いては世界的な作家となった。。
しかし「1Q84」はどうだったのか──それも、BOOK3に関しては、とりわけ。
読者の気持ちを一気に高揚させる圧倒的な引力の存在を感じる一方で、読中読後に抱かされることになったのは、なんともコントロールしづらい戸惑いや、居心地の悪さだった。
村上春樹の作風は「スプートニクの恋人」あたりから、明らかにデタッチメントからコミットメントへと遷移してきた印象がある。
しかし「1Q84」は、構造としてはコミットメントであっても、登場人物の多くに強いデタッチメントを感じさせられてしまった。
例えば「1Q84」には大麻を吸う看護婦が登場するが、当世風リアリティがたっぷりで、そうした存在にコミットすることは、現代の一市民にとっては難しい(Love&Peaceは遥かな昔話だ)
それ以前に、ヒロインが暗殺者という大前提は、喉のイガイガや、指のササクレと表現するにはあまりにも大きすぎるボトルネックだ。
「罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い」
と語っているが、かつて週刊誌の記者だった僕は、現場でオウムと対峙していた経験から、全く逆の実感しか得られていない。
さらに村上春樹は、オウムという存在は、われわれの社会全体から生まれてきた──という認識を一貫して示している。
彼の言う“両サイドからの視点”は、はたして本当に“必要”だったのだろうか。
オウム事件は現代社会における「倫理」とは何かという、大きな問題をわれわれに突きつけた。オウムにかかわることは、両サイドの視点から現代の状況を洗い直すことでもあった。絶対に正しい意見、行動はこれだと、社会的倫理を一面的にとらえるのが非常に困難な時代だ。
罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった。ほぼすべての登場人物に名前を付け、一人ずつできるだけ丁寧に造形した。その誰が我々自身であってもおかしくないように。──【『1Q84』への30年】村上春樹氏インタビュー(上):読売新聞
丁寧に作られたという“誰が我々自身であってもおかしくない”というキャラクターに、それだけのリアリティはあったのか。誰もがシンパシーを持ちやすい存在だったのか。
「ノルウェイ──」のワタナベなら、あるいは「海辺のカフカ」のカフカくんでも、その不器用な彷徨には、人の心を引きつける何か、共感させる何かがあった。
かつての村上春樹の物語は、構造として強いデタッチメントを持ち、その語り手はいつも、どこかつかみ所の無い、正体不明のキャラクターたちだった。
しかし彼らが、デタッチメントの闇夜で不器用に、ぶっきらぼうにコミットメントを求め、悲愴にも彷徨う姿は、不思議と読者の心を捉えていたものだ。
あるいはそうしたシンパシーは、かつて多くの文学青年が中島敦の「山月記」に抱いたような、ある種普遍的なものだったのかもしれない。
そして、少なくとも僕が、これまで村上作品に強く感じ、一方的なシンパシーを持ち続けていたのは、そうした登場人物の喪失感や虚無感に対しての思いだったと感じている。
例えば、「ねじまき鳥クロニクル」では、主人公の喪失の重みや痛々しさにどうしても耐えられず、ある時期からほとんど再読できてない(──僕には井戸もなければ、隣家の少女も、ましてや加納姉妹や赤坂親子が存在するわけもないのだから)
しかし──今回はどうだろう。
物語の構造は、あくまでもコミットメントだ。
登場人物は他者と関わらない限り、物語を進めることができない。
しかし、その登場人物たちは、ことごとく強いデタッチメントを抱えている。
読者にとってシンパシーを持ちにくい存在たちが、どこか過剰な使命感と自立心を持ち、その強さで他者を強引に巻き込んでいく。
そして、RPGのようにカッチリとした物語構造の中で、用意された結末にむかってグイグイとラッセルしていくのだ。
そのベクトルとスピードは、ともすると一部の読者を振り落としてしまったことだろう。
もっとも、BOOK1、2に関して言えば、ボトルネックとしての青豆というヒロインも、小学校時代の天吾とのふれあいや、学生時代の環とのエピソードといったディテールによって、読者は彼女に温かみやリアリティを感じることができるようになっていた。
しかし、BOOK3では青豆は訓練されたマシーンとして感情を抑圧し、淡々と存在、行動するだけで、どうにもその人間味が感じにくい。
その一方で、天吾との距離はどんどん縮まっていき、ついには大団円を迎えるわけだが、この“愛の物語”の展開を評して“セカイ系”“スイーツ系”と称する声は少なくない。
その論に正面から賛成することはしないが、あるいは、そうした断片が悪目立ちしてしまうくらい、物語世界の構築や、登場人物の作り込み、人間性の描写が甘かったのではないだろうか。
そうした構造、構成を客観的に見た面から“完成度”を語るのであれば、BOOK3は、BOOK1、2の地平からあきらかに“後退”しているだろう。
また、その二人の物語の進行につきまとう“お約束”感もまた、読者の気持ちの盛り上がりをスポイルしてしまう。
天吾と青豆が、期待された通りに出会うラストは大団円だったとして、デウス・エクス・マキナだったとして、そこにはなんのヒネリも驚きも無い。
村上春樹の小説で、同じように別々の物語が並行、錯綜して進行するものに「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」がある。
そこでは、二つの物語が、クライマックスに向けてラヴェルの「ボレロ」的な集約、収斂と高まりを見せている。
しかし、「1Q84」での青豆と天吾の物語は、あくまでも期待通りに進行し、予想通りに重なっていく印象を拭えない。
物語は、期待を裏切ってはいけない。しかし、予想は裏切られなければいけない──作劇法の命題の一つにこんなものがある。
「1Q84」で“期待”されたのは、青豆と天吾の再会であり、1Q84年世界から1984年世界への脱出だろう。
しかし、その“予想”はじつに“鉄板”の結果を迎えたのではないか。
それこそ「目次がネタバレ」という声が随分たくさんあるように、この物語の底は、ずいぶんと浅かったようだ。
また、村上的世界の“スターシステム”の重用が、以前にも増して進んでいることもひっかかる。
牛河その人の登場はもちろん、物語のモチーフの “使い回し”が、頻出しすぎではなかっただろうか。
例えば、リーダー殺しと新しいリーダーへの希求は「羊をめぐる冒険」、病床の父親は「ノルウェイ──」、ホテルで安息を“発見” するクライマックスは「ダンス・ダンス・ダンス」──
こうしたスターシステムの存在が、近作でどんどん目立つようになっているのは、宮崎アニメにも重なる部分だと思う。
数字が出ている=ファンは喜んでいる──ということになれば、ビジネスとしては正しいのだろうけれど、作品性としては、どうか。
あるいは、“老境”に達した作家というのは、そういうものなのだろうか。
ところで、BOOK1、2の発売当時にも同じことを感じたのだけれど(拙ブログ:「1Q84」とブルース・リー)、今回も評論家や読者たちの“解釈論”が百家争鳴のカオスになったことには、ほとほとグッタリしてしまった。
解釈論がこれだけ飛び交うのは、作品の魅力とポテンシャルの高さの証明でもあるだろう。
「私はこう思った──」と言いたくなる、そして誰かとそうした話をしたくなる──それ自体は自然な感情だと思う。
しかし、村上春樹その人は再三「村上春樹イエローページ」的な“研究本”の存在に嫌悪を表しているとなると、それが仕事の評論家はともかく、ファンを称する層が競ってトンデモ論を展開する状態は奇妙にも思えた。
村上春樹は「トニー滝谷=十二滝村」といったトンデモな“解釈”を俎上にしていたわけだが、mixiやTwitterで見られた、牛河的なスターシステムが登場した理由を“絶筆”に結びつけようとするものや、誰が誰の転生である、しかるに──といったオカルト論は、荒唐無稽なものも多く、為にする論の域を出ていないものも多い。
しかし、そうした読者たちの珍説を上回るトンデモを展開しているのは、またしてもプロの評文だった。
BOOK1、2出版当時には、「1Q=私はQ」と「1Q84」と魯迅の「阿Q正伝」をリンクさせた東大教授の藤井省三(「1Q84」は「魯迅に捧げる中国色溢れる作品」:Record China)や、「主人公は神経ガス兵器の研究に携わることになる信者」という“予想”をしてみせた「WIRED VISION」(高森郁哉:ArtとTechの明日が見たい)といった“先人”がいたけれど、今回もなかなかに、ヒドい。
東大教授の沼野充義は「村上春樹は一種の華麗な退却戦を戦ったのだと思う」と持論を展開。
この“撤退戦”という認識自体は興味深いが、その“退却先”がまた、トンデモすぎる。
作家は結局、彼のピュアな原点に立ち帰った。それは「ボーイ・ミーツ・ガール」──つまり青豆と天吾の感動的すぎるほどの愛の物語である(今週の本棚 沼野充義:毎日新聞)
村上春樹の作品が“感動的すぎるほどの愛の物語”だったことが、これまであっただろうか。
東大のセンセーともあろう人が、金をとって文章を書いているのだから、一次資料にくらいはあたってほしいものだ。
もっとも、トンデモの最たるものは「『1Q84』の物語は“予言”」と言い放った五島勉だろうにしても。
仮に、青豆の処女懐胎と「新約聖書」、あるいは「少年カフカ」と「オイディプス」、「世界の終わり」の壁の街とICU──そうしたシンプルな本歌とりやディテールの一致、類似についての論が“解釈論の総合格闘技”であるとしよう。
としたとき、「1Q=私はQ」「1Q84は“よげんの書”」「トニー滝谷=十二滝村」といったトンデモ論は、ファイティング・オペラ──実にドラマチックな“解釈論のプロレス”だ。
そうした“格闘技”を好む読者なら、論を交わすことはもちろん楽しいだろう(そして“ファイト”に関心を持たない層も当然ある)
しかし、プロレスが総合と違うのは、ベビーフェイスにも、ヒールにも、作り込まれたギミックが背景に控えているということだ。
もっとも、プロでもしょっぱい試合しかできないのであれば、観客に見せる価値は無い。
ましてや、高校や大学の学園祭のような素人プロレスでは、その書生論、畳水練を一番楽しんでいるのは当のレスラーやスタッフたち──ということもあるだろう。
だからといって、解釈論プロレスを全否定するつもりは無い。
プロの興行で、あるいはアマチュアの格闘家だったとしても、ユニークなキャラクターやストーリーが登場するのは、それはそれとして楽しむことができるはずだ。
しかし、それがギミックとしてではなく、トーダイキョージュといった権威とともに登場すれば、なんとも興醒めにしても。
それにつけても、書評を依頼されたプロでもない一読者が、読書そのものよりも、伏線の回収や謎解き、トリビア探しに忙しいというのは、なんとも不思議なものだ。
これも、ブログやmixi、Twitterといったものがもたらした、キーボードリテラシーの“勘違い”のひとつだとしたら、なんとも順番が違う気がするのだけれど。
「ファイティング・オペラ」とは、プロレス団体の「ハッスル」が自らの興行を称した言葉。
インリン様やレイザーラモンHG、曙──と、なんともキッチュで華やかなプロレスだった。