想像してごらん

casa_kyojin2010-08-16


Twitterで、「ホモに厳しい人はホモの友達がおらんのでしょう──」というTweetがあった。

以下同じように、在日に厳しい人は──、ニートに──、鬱病に、障害者に、と続く。

曰く、そうした友達がいないということは「実態をしらん」ということだという。

@tetumen: ホモに厳しい人はホモの友達がおらんのでしょう。在日に厳しい人は在日の友達がおらんのでしょう。ニートに厳しい人はニートの友達がおらんのでしょう。鬱病に厳しい人は鬱病の友達がおらんのでしょう。障害者に厳しい人は障害者の友達がおらんのでしょう。実態を知らんのでしょう。


身近な友達という存在が、あるいは身近にマイノリティが存在することが、相互理解のカギとなる──というのは一見、真理のようにも見える。

しかし、経験則だけをシンパシーの必要条件としてしまうのは、あまりにも危うい。

もしそれが正しい命題だとしたら、例えば日本人の大半は、世界の民族問題や、絶滅種や氷河の後退といった環境問題にも、想いを寄せることができなくなってしまうことになる。


ここで思い出すのは、♪バカな平和主義者 ♪あの夢想家──ジョン・レノンのことだ。

彼は「天国なんて無いと」「国なんて無いと」──想像してごらん、というのだ。

決して、平和主義者に厳しい人は──、とか、実態を知らない──とは言わない。


何かを思うとき、考えるときに、実際の経験が何よりの財産になることはもちろんだ。

でも、実体験が無ければ、当事者が身近にいなければ、人は思ったり、感じたり、考えることができないのだろうか?

だからジョンは言うのだ──想像してごらん、と。

──みんなが今日のために生きているということを、みんなが平和に暮らしている姿を、そして、みんなが世界を分かち合っていることを。



そしてこの、マイノリティの問題というのは、僕にとって身近な、と言うには余りにも個人的な命題だったりする。

じつは僕自身──あるマイノリティの一員だからだ。


だから、僕が真っ先に考えたのは、経験則のことでも、想像力でも、ジョン・レノンでもない。それは、友達でもなければ感じてもらえない、理解してもらえない、という深い闇の地平だ。

しかしここには、そうしたマイノリティを、友達ならば受け入れてくれるのか──という別の問題もまた存在する。

僕自身、自分のマイノリティとしての属性を、いつでも、どこでも包み隠さずにいる──ということは到底出来ていない。

友達だからといって、その属性を受け入れてくれるとは限らない。
あるいは、距離感が近いからこそ、関係性が深いからこそ、それを忌避されるかもしれない。

友達にも拒否されてしまうかもしれない──マイノリティの抱えている闇とは、例えばこんなふうにも深い。


あるいは、“友達”との相互理解ができていたとしても、時としてそこにはズレのようなものが生じることもある。

僕自身も、そうした“友達”として、恥ずかしい経験をしたことがある。

その当時、ちょっと手話ができるからといい気になっていた僕は、聾者の画家と劇団員のラブストーリー「愛していると言ってくれ」の端々に憤りを感じ、仕事でご一緒する機会のあった聾学校の美術の先生(聾者)と、その不満を共有しようとした。

「(あのドラマに)いろいろな意見があったことはわかります。でも、僕は自分が美大に通っていたころ、実際に経験したようなエピソードがいくつも出てきましたから、ただただその頃のことを思い出してしまいました」(拙ブログ:■[entertainment] 赦し


“友達”が知ることのできる“実態”というものも、時にはこうして空回りしてしまうこともある。


経験も大事、実感も大事。もちろん想像力も大事。

かといって、人は、誰かの“友達”になれたとしても、その人自身に成り代われるものでもない。


でも、だからこそ僕は、もっといろんな人に、もっとマイノリティのことを、もう少しだけでも想像してもらうことができたら──という希望を、これからも、そっと掲げ続けていくだろう。

そして僕自身も、もっともっとたくさんの想像力を持てるようになりたいと、心からそう思っている。


■祝 王様伝説 王様即位十周年記念大全集

実は僕はジョン・レノンが──というか、彼の熱心なファンのことがとても苦手だったりするので……ここでは直訳ロックの「王様」の日本語カバー「想像してごらん」をピックアップ。

残念なことに、シングルは入手困難になっているようだけれど、このベスト盤にも収録されている。

めずらしくフザケていない王様が、しみじみと ♪想像してごらん〜 と語りかけるように歌っています。