想像してごらん 2 〜“鉄面さん”への回答〜
先日のエントリー(拙ブログ:[life]想像してごらん)に、件の文章をTweetされた鉄面さんを名乗る方から、コメントがありました。
Twitterでの返信やリツイートではありませんでしたので、件の鉄面さんその人であるかの確認ができませんが、ひとまず返答します。
また、コメント欄のスペースは限られているので、こちらでお返事することにしました。
鉄面 2010/08/16 17:39
僕のそのツイートの前後のツイートは読まれたんでしょうか?
そのツイートをリツイートする際にあなたのいう善意の第三者に与える影響を考えましたか?
それだけお聞かせください。
> 前後のツイートは読まれたんでしょうか?
はい。読んでいます。
その上で、マイノリティに対する理解やシンパシーの依拠を、経験則に偏重すべきではない──としているのです。
また、当該Tweetが、前後のものと連なった形でなければ本来の意味を成さない、というのであれば、予め連番などを添付するべきだったでしょう。
あるいは、140文字の制約で、真意を表せなかったというのであれば、Twitlongerなどのサービスや、ブログへのリンクなどで対応すべきだったでしょう。
しかし、こと経験則偏重の危うさに関しては、件のTweetを単独で取り上げたことで生じた誤読、曲解とは思えません。
※以下に前後のものと合わせ、三つのTweetを引用します。
@tetumen: おれはホモじゃなくてホモに寛容なだけやで、知り合いにホモがおるからの・・・。
@tetumen: ホモに厳しい人はホモの友達がおらんのでしょう。在日に厳しい人は在日の友達がおらんのでしょう。ニートに厳しい人はニートの友達がおらんのでしょう。鬱病に厳しい人は鬱病の友達がおらんのでしょう。障害者に厳しい人は障害者の友達がおらんのでしょう。実態を知らんのでしょう。
@tetumen: 俺に厳しい人は俺が友達じゃないんでしょう。実態を知らんのよ。俺の実態を・・・。
ここでいう、知り合いにホモがいるから、ホモに寛容だ──という経験則自体は尊重されるべきものです。
しかし、友達がいなければ、実態を知らない──としてしまえば、短絡が過ぎます。
マイノリティという存在に寄せられる得る共感というものは、そうしたドメスティックなものだけではないからです。
またここでは、無造作に「ホモ」という言葉が連発されています。
しかし、この「ホモ」という言葉は、ゲイカルチャーの中では、PCとしても、実勢としても、忌避されている言葉です。
私はPC的な言葉狩りについて、全面的に賛成する立場にはありません。
しかし、ゲイという言葉が何故成立したのか、という経緯、現実に対する認知や共感、そしてリスペクトは持っています。
私にも、ゲイに限らず様々なセクシャリティの友人知人がいます。
そうした人たちの前で、「ホモ」に限らず、彼らの気分を害する、忌避する、あるいはその可能性のある言葉を、あえて使うことはありません。
公の場で男性同性愛を語る時、非当事者でありながら無造作に「ホモ」という言葉を繰り返す語り手が、同時に“実態”云々を持ち出すことには、空々しさも感じます。
また、このTweetは、ホモ、在日、ニート、鬱病、そして障害者を一様に例示しています。
いずれもマイノリティであることは同じですが、それぞれが各様にラジカルな属性を、このような形で並記するのは、いささか不穏当でしょう。
さらに、可逆的な属性と、不可逆な属性を並列させていることもまた、ひっかかります。
例えば、鬱病の完治という状況はあり得ます。しかし、四肢の欠損といった障害が回復することはないからです。
> 善意の第三者に与える影響を考えましたか?
以下は、私の各論が「善意の第三者」にネガティブな“影響"を与えうる──という指摘を受けたという前提で書きます。
まず、当然のことですが、発言責任の所在と存在は、常に意識しています。
各論についての指弾があるとしたら、それは全て私に帰するものです。
次に、私は件のTweetを全文を引用した上で(公正を期すため、中途でRTを非公式から公式のものへと切り替えています)、各論を提示しました。
また引用についても、原文の改竄を行ったりはしていません。
それら各論が、そうした“負の影響”を発生させる状況があるというのであれば、具体的に例示してください。
そもそも、“負の影響”を云々するのであれば、「第三者」の前に、当該Tweetが「当事者」に与えたものこそ、第一義に捉えるべきです。
まず、「ホモ」という言葉を用いている点については先述のとおりです。
次に、マイノリティに対する認知や理解は、当事者とその周辺にこそある──という命題からは、「善意の第三者」の存在への想像力が希薄に感じられます。
そして、あるマイノリティの“友達”であれば、その属性に対して厳しくあたることはないだろう──という認知は、“実態”に即していない部分があります。
先日のエントリー(拙ブログ:[life]想像してごらん)に書いたように、私自身も、ある被差別マイノリティの一員です。
そうした属性から見た時、友人たちが厳しくあたることはない──というのは、たしかに一面の真理です。
しかし、友人だからこそ、その属性をカミングアウトできない──というフェイズもまた、私が日々過ごしている現実なのです。
世の中の全ての人が私の属性を差別する──そんなことはありません。
友人だから、差別なんてしない──そういうケースが多いのは事実です。
しかし、例えば、パーティーのような席で、私が取り分けた食べ物に、決して口をつけようとしない人がいたとしても、私はさして驚かないでしょう。
もちろん、悲しいことです。
でも、そうした振る舞いや、そういう人の存在は、決して特殊なものではないからです。
そうした現実を考えた時、全ての友人、知人に対してカミングアウトする勇気を、私は持てずにいます。
“友達”だからこそ言えない──
“実態”を知ったからこそ差別する──
こうした現実があるからこそ、私は、経験則の危うさを言うのです。
鉄面さんが、「ホモ」の知り合いについて寛容だというのであれば、それはもちろんすばらしいことです。
しかし、マイノリティに対する理解が、経験則においてこそ成されるという考え方は、少なくとも木を見て森を見ず、葦の髄から天井を覗くといった狭い範囲の理解でしかないでしょう。
せっかくそうした寛容さをお持ちなのであれば、もう少し引いた視点や、もっと広い範囲へ想像力を巡らせることもまた、そう困難なことではないと思うのですが、いかがでしょうか。
最後になりましたが、コメントをありがとうございました。
■イズラエル・カマカヴィヴォオレ:Facing Future
ウクレレを優しく奏でるハワイのシンガー、イズラエルが、拙ブログに登場するのは二度目(拙ブログ:[music] イズラエル・カマカヴィヴォオレ)
このアルバムは、映画「ジョー・ブラックをよろしく」のエンドロールで流れた「Somewhere Over the Rainbow/What a Wonderful World」のメドレーを収録。
マイノリティの問題が、経験則に偏重してしまった場合の危うさについては、拙ブログにも様々な形で書いてきた。
そもそも、問題を抱えている当事者間が、充分な相互理解の下で平和でいられるかというと、必ずしもそうではない。
例えば、GID(性同一性障害)の中には、自分たちは同性愛者といったセクシャルマイノリティではない──といった価値観から、ゲイやレズビアンなどを忌避する傾向もあったりする。■[newstale] <椿姫彩菜>はるな愛と激論 メイクや女装、豊胸で
とても残念だけれど、こうした例もまた、“友達”などの近い存在だからといって、“実態”への理解が深まるとは限らない──という“厳しい”現実の一つだったりする。
いわゆるゲイ・パレードが、その名に「レインボー」を冠することがあるのは、虹の七色を、人間の多様性になぞらえてのことだ。
それは、金子みすゞの言うところの「みんなちがって みんないい」にも似ている。しかし、私たちはまだまだ──虹の地平にはたどり着けずにいる。