想像してごらん 3 :経験則<想像力

casa_kyojin2010-08-23


先日のエントリー([life] 想像してごらん 2 〜“鉄面さん”への回答〜)に、ryudama_jgaさんという方からコメントをいただきました。

以下、そちらのコメントにお返事いたします。


> 浅川さんの「友人だからこそ」と言う言い分も経験している為、分かっているつもりです。

> こちらが浅川さんの論点に該当しているかと。


たしかにそうした観点から、私の具体的な経験、実感について挿話として触れています。
しかし、それは私の論点の一部に過ぎません。


先のエントリーで、

>> そうした属性から見た時、友人たちが厳しくあたることはない──というのは、たしかに一面の真理です。

──としたように、近い関係性に立脚した相互理解というフェイズやタイミングは、たしかにあります。
マイノリティの友人という存在が、新しい視点や、理解を持たらしてくれることがあるのは、まぎれもない事実でしょう。

また、

>> 鉄面さんが、「ホモ」の知り合いについて寛容だというのであれば、それはもちろんすばらしいこと

ともしているように、私は、ryudama_jgaさんのおっしゃるところの「鉄面さんの論点」の全てを否定しているわけではありません。


しかしその上で、経験則に“偏重”することの危うさを言っているのです。


人は、実経験が無ければ、認知や理解が広げられないのでしょうか。

あるいは、実際の経験からネガティブな認知、理解をしてしまったとき、それだけを経験則として、否定的な認識を持ってしまうことはないでしょうか。


だから私は、「経験則」以上に大事なのは「想像力」だ、と何度も言葉を重ねているのです。

経験則だけでは、それがポジティブなものであっても、ネガティブなものであっても、その限界が必ずあります。

そこにブレイクスルーをもたらすことができるのは、「引いた視点」と「多様性」についての理解であり、そうした広い認識こそが、人を「みんなちがって みんないい」という「虹の地平」に連れて行ってくれるだろうと、繰り返しています。


> そういった機会(友人・知人ができる)が無い限り、実体を知ろうとしない人達
そうした人たちにとって、実体験できるチャンスが訪れることは、まさに僥倖でしょう。
それこそ、ノーマライゼーションという概念の一環には、そうした効果があると言えます。

しかしそこで、目の前の経験、実感だけに留まってしまえば、人は矮小なままでしょう。

充分ではない経験から、多くの認識を得るためには──
ネガティブな体験から、否定的な結論だけを導かないためには──

──やはり想像力の存在が、不可欠だと思うのです。


もちろん経験則自体は、即効性など、多くのメリットもある大事な概念です。

しかし、ことマイノリティの問題を考えるとき、友達の有無といった狭いフェイズからのスタートは、その認識や理解を限定的なものにしてしまいかねない、危うさも持ち合わせています。

経験則の存在は、もちろん歓迎すべきことです。

しかし、それ以上に大切で、そして不可欠なのは、もっと広い範囲に対する引いた視点と、身近なことだけにはとらわれない想像力の存在でしょう。


■わたしと小鳥とすずと:金子みすゞ


再三引用した「みんなちがって みんないい」は、金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」からの引用です。


  私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のやうに、
  地面を速くは走れない。

  私がからだをゆすっても、
  きれいな音は出ないけど、
  あの鳴る鈴は私のやうに、
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。


ここでは、私と小鳥、そして鈴の三者しか登場しません。
しかし、狭い範囲の経験則に決してとどまらない普遍性と、想像力の広がりが感じられます。

しかし、マイノリティの問題を、自分の友人関係といった図式に縮小して捉えることは、これとは全く逆の道筋です。
狭い範囲への認知だけで“実態”云々と言ってしまうのは、現実の矮小化ですらあるでしょう。