GIDという“性差別者”

casa_kyojin2011-01-21


第二次性徴以前の児童が、GID性同一性障害)の“患者”として認められ、投薬治療を受けることになったという。

今月20日、大阪医科大が、兵庫県内の小学校6年の男児(12)に対し、思春期の第二次性徴を一時止めるため、抗ホルモン剤を用いた治療を始めることがわかった(■小6男児に抗ホルモン剤=性同一性障害、小児で初−大阪医科大時事通信


第二次性徴以前、つまり性がまだ完全には分化していない段階での性の“決定”は、様々な側面での問題があるように見える。

例えば、一部のGIDの人たちは、同性愛者を忌避する──という現実がある。
GIDは“病気”だが、同性愛、両性愛は“異常”だというのだ。

彼らが持つ「私はGID。あの人はホモ(レズ)」というロジックの、社会への波及、受容が、そうした“早期診断”によって加速される可能性はないだろうか?

GIDという“病気”の早期診断を是とすることで、社会にセクシャルマイノリティに対する不寛容が形成されてしまうのでは? という懸念が、杞憂であることを祈る。


こうした“早期診断”が、性の多様性を受容する方向に機能するのであれば、もちろん歓迎したい。
しかし、このようにGID“治療”への環境整備が進む一方で、社会的ユニバーサルデザインノーマライゼーションとしてのセクシャルマイノリティへの認知、理解への取り組みは、およそ進んでいないのが現実だ。

例えば去年、鹿児島の中学校で、GIDFTM(心は男性と主張する女性)の生徒に対して、男子の制服の着用を認めた、という事例があった。

これは、個別の事例への対応としては、もしかしたらよいことだったのかもしれない。

しかし制服というのは、あくまでもジェンダーの問題であって、セックスの問題ではない。

たしかに“耳あたりのいい”話ではある。
しかし、GIDだけが制服を選べるとなれば、例えばファッションとして学生服やブレザーを着たいという、ヘテロセクシャルの女子生徒はどうなるのだろう。

つまり、こうしたアンバランスな対応は、マイノリティに対する理解のようでいて、マジョリティに対する逆差別としても機能しているのだ。

ジェンダーの一つにすぎないスカートが、あたかも男というセックスを全否定しているかのような前例を定義、構築することは、封建的な性差別や、それに対する迎合であっても、ジェンダーフリー、セックスフリーという「みんなちがって、みんないい」という地平からは一番遠いファッショだろう。


そもそも、こうした一連のGIDに対する取り組みは、はたして“患者”と、広く社会に対してのメリットを指向したものなのだろうか?

それこそ、児童生徒に対するHPVワクチン(いわゆる子宮ガンワクチン)の投与を推進しようとしている向きには、子供たちの健康、安全ではなく、アメリカの製薬会社の利益を第一に考えているのでは? という懸念が指摘されている(成分の一部に、家畜用の避妊薬と同様の成分が使われているとも──)

今回の事例の「最年少」というキーワードにしても、研究室的に主導されたものではないことを、ただただ祈るばかりだ。
母親のちょっとした遺伝障害が原因で、大学病院で“胎児に対する世界初の治療”を施されそうだった──なんてエピソードを持つ僕としては、本当にそう思う(その治療は──僕が五体満足で産み落とされた十数年後、旧共産圏の衛星国家で、世界で初めて行われた)


また、セクシャリティとの対峙という微妙な問題を、医学の問題としてだけ対処してしまうのは、拙速にも思える。

例えば、ヘテロセクシャルの男性、女性が、外性器、内性器の存在だけで、性自認を確立させたとでもいうのだろうか。
それでは、人には第一次性徴しか必要ないだろう。

ヒトは、チンコがついていれば男なのか? マンコがついていれば女なのか?

第二次性徴や、それと時期を重ねる疾風怒濤時代は、誰にだってやってくる。
それを、GIDという“病気”を理由に、医者が、薬が、あるいは外科手術が、コントロールすることは、人間とその精神の成長に対する過剰な干渉ではないのか?

そうした“男性”や“女性”には、どこか脆弱さが伴うのではないか?

実際、自分のセックス、ジェンダー、そしてセクシャリティーと常に対峙してきたゲイやレズビアンの人たちに対しては、その“強さ”を実感することが、とても多い。

そうしたマイノリティの人たちの強さと、そこに立脚した理解や受容──やさしさとは対照的に、GIDの人たちに対しては、性自認やセックスに対する頑迷な狭量さを感じることがある。

彼らはあくまで、自分たちの“本来の性”への帰還のみを指向し、封建的なヘテロのように同性愛者や両性愛者を忌避、指弾するのだ。

私たちは病気が治ればヘテロです、ノンケです ──と、主張するのはともあれ、返す刀で「あの人たちはオカマです」と、背中からバッサリやっても、自爆テロにすらなれないだろう。



ところが、このような形でGIDに言及すると、性差別者と指弾されることがしばしばある。

私自身、椿姫彩菜の性差別的なスタンスを揶揄して、ひどく突き上げられたこともある。(■拙ブログ:[newstale]<椿姫彩菜>はるな愛と激論 メイクや女装、豊胸で

しかし、GID、同性愛、両性愛クロスドレッサー、そしてヘテロ──どんなセクシャリティも「みんなちがって、みんないい」という理想と、「私はGID、あの人はホモ」といったファッショは、決して相容れない地平の物語だ。


人は──自分と相容れないマイノリティを受け入れることで、優しくなれたりはしないだろうか。

否定や忌避から始めないで、まずは受容から始める。
人は──それだけで何かを変えられるのではないだろうか?


──そんなことを信じている私は、多分夢想家なのだろう。

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ジェンダーフリーというのは、例えばこうしてランドセルに多くのカラーリングを用意することかもしれないにしても、男だからこれはダメ、女だからこれはダメ、とすることではないはず──。

■「性同一性障害 小児に初の治療」時事通信(2011/01/20-11:36)

心と体の性が一致しない性同一性障害GID)と診断された兵庫県内の小学校6年の男児(12)に対し、大阪医科大ジェンダークリニック(大阪府高槻市)が、思春期の第2次性徴を一時止めるため抗ホルモン剤を用いた治療を始めることが20日、分かった。GIDの治療で小児に抗ホルモン剤を投与するのは国内初とみられる。