自由報道協会の“自由”1

casa_kyojin2011-06-04


自由報道協会」という団体がある。

“黒い池上彰”こと上杉隆を暫定代表として設立され、フリージャーナリストが集まったこの団体は、その目的を

──日本に「自由な言論の場」を創るため

と称し、いわば「記者クラブ」に対するアンチテーゼとして存在、活動している。


記者クラブは、政府や官公庁といった政治行政の場における報道の現場で、新聞社やテレビ局の記者たちによって構成されるもので、いわば、巨大な既得権益となっている存在だ。

私自身も、かつて週刊ポストの記者として、記者クラブとの軋轢を、現場で多少なりとも経験している。

そのように、記者クラブの外から報道に携わったことのある人なら、彼らの権力者へのお追従や特権意識、排他性に、辟易させられた経験があるはずだ。

週刊ポスト当時、ある地方自治体の首長の、何度目かの女性スキャンダルを追ったことがあった。

するとその首長は、地元の記者クラブと結託し、新聞記者たちにこちらの取材を妨害させるという手を打ってきたのだ──。

彼らの“権威”は、そのような権力側との癒着だけではなく、新聞やテレビにおけるクロスメディア支配にも裏書されており、それと同時に、許認可事業という軛をまぬがれることができない。
それゆえに、その“報道”が、永田町や霞が関の顔色をうかがったり、彼らの意向そのものになることは、極めて多い。

そして、今回の福島の原発事故により、政権与党と官僚の“御用メディア”としての特性、本質が、白日のもとに晒されることになったわけだ。



私は、福島以前からも、自由報道協会の設立趣旨や理念には、基本的に共感していた。

しかし、その主催する記者会見における人選など、疑問を感じることもあり、素直な期待の一方で、必ずしも全面的な賛同を寄せていたわけではない。

また、一部で誤解も生じてしまったが、私自身は自由報道協会のメンバーでも、関係者でもないことを明言しておく。



──さて、やっと本題が始まる。

ことの発端は、私のある日のツイートだ。

@as_daisuke
記者クラブメディア的な視点で永田町や霞ヶ関を眺めている友人に、自由報道協会の話をしようとしたら、ハナからインチキ扱いされた。彼曰く「自由を名乗るところに自由があったためしがない」──そのレトリック自体には妙に納得してしまう。そして、記者クラブは名前的に得をしているとも思った。

このツイートには、ずいぶんと多くの公式RTや、いくつものリプライをいただくことになった。

まず第一に、多くの関心に感謝を。
またここで、140字では書ききれなかった部分について、説明しようと思う。

@utsunekotei
まだ「記者クラブ報道」擁護の人がいたとは驚きだな。そもそも現場も記者だって「記者クラブなんて日本の恥だ」と言っているのに(実際、この耳で聞いた)

こうした誤解も受けてしまったが、私の友人は、決して記者クラブとその報道を擁護していたわけではない。

ここからが複雑な話になってしまうのだが──


彼は、既存メディアの報道やその姿勢には、とうの昔に絶望しており、テレビや新聞といった既存メディアには、日々ほとんど接することが無いというのだ。

それでは彼が、政治経済について、何をニュースソースとしているかというと──彼が属する業界団体からの情報──だという。

そして、彼の職業、業務は許認可事業そのものだけに、その発信する情報は、政権や官僚とベッタリなものであり、それを私は「記者クラブメディア的な視点で永田町や霞ヶ関を眺めている」と感じた、というのが“真相”だった。

なにしろ、この夏は電気が不足する──、今後も原発を推進するしかない──、というのだから、霞が関や、東電と一蓮托生の族議員たちが“絵に描いているモチ”と全く一緒だ。


だからこそ、彼には、御用報道のような情報だけではなく、もっと様々な情報にも触れてもらいたいと思った。

しかし、twitterのアカウントも持っている彼だが、これまでに非記者クラブ的な情報に接する機会は極めて少なかったようで、僕がそうした情報を公式RTしたり、僕自身が考えを述べたツイートに触れることも無かったようで、とても残念だった。


そして、自由報道協会の話を持ち出そうとした僕は、軽く一蹴されてしまった──というところに、やっとたどり着く。

しかし──

「自由を名乗るところに自由があったためしがない」

──この彼のレトリックに、僕は妙に納得させられてしまったのだ。

@anup0rn
そんな所に惑わされているから真実を見極められないんだと伝えてください。

といった正論が、リプライで寄せられている。

たしかに、記者クラブ媒体的な報道が、真実と逆行している例は枚挙にいとまがない。

例えば、既存メディアは永田町や霞が関の意を汲んだ形で、福島の原発事故に関して、情報隠しや、ミスリードを誘う報道を、あからさまに行なっている。


こうなると、

@Saisyoh
自由が無い所だからこそ自由を名乗る勢力が出る。

と感じる人が出てくるのは、当然のことだろう。


しかしそれでもなお、僕はこのレトリックに“妙に”納得させられてしまったのだ。


そして、こうした意見も寄せられた。

@Ryoko108
確かに名称に違和感。

@wellover
そうだ、単に「報道協会」と本流系に改称すべし。

@amiyoshi344
これまで自由報道協会の皆さんには、組織名から「自由」を削るようにお奨めしてきているのですが、直ちには「聞く耳」持っておられないようです。

自由報道協会の関する“自由”に対して、僕の感じたような違和感を持つ人は、少なくとも一定数は存在するようだ。


はたして、自由を名乗るところに、自由はあるのか?

@kimsounds
自由民主党

@minamidera548
民主を名乗るところに民主があったためしもない?

@myold55
記者クラブを名乗るところに、記者がいたためしはない」ってレトリックもあるよ。

こうした当意即妙なリプライも寄せられているように、カンバンに大書きされているお題目に寄せられる、不信、懐疑の目は多い。

実際、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)という、じつにわかりやすい羊頭狗肉の例もある。

また、かつてフィギュアスケートの採点項目に「芸術点」があった当時、「芸術を名乗らなければいけないのは、フィギュアが芸術ではないから」と言ったアーティストがいたのも思い出した。


◯◯を名乗るところに◯◯無し──という定義が正しいか真理かどうかはさておき、声高に呼ばわる大義名分は、その声が大きければ大きいほど、ある種の懐疑を向けられてしまいがち、という傾向はたしかにあるのだろう。
(次項:■自由報道協会の“自由”2:“自由”が掲げる旗の色 ──に続く)

そういえば、今年の仕事始めは、奇しくもアニメ「FREEDOM」の森田修平監督と、「スチームボーイ」の木村真二美術監督の対談だったことを思い出した(魂のインタビューリレーシリーズ「ナイショだった? 大友作品『ヒピラくん』製作の秘密」


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