自由報道協会の“自由”2
(前項:■自由報道協会の“自由”1:羊頭狗肉を疑う目 ──から続く)
自由報道協会の名乗る“自由”には、ある種の軽さや、一種の不明瞭さが伴っているような印象もある。
彼らの英語での名称は、FPAJ(Free Press Association of Japan)というものだ。
──シンプルで、潔い英訳かもしれない。
しかし、直球勝負ではあっても、一本調子で、みんなの党の英語名"Our party"のような、ウィットや戦略は感じられない。
また、「報道の自由」を英語で言うと、"freedom of the press"となり、「自由」だけではなく、「無料」ともとれる"free"は、そこには登場しない。
はたして彼らの掲げる自由、フリーというのは、単にフリーランスの記者であることを指すのだろうか。
それとも、報道の自由を掲げていることを指すのだろうか。
残念なことに、自由報道協会というその名や英訳、そして彼らの行動からは、その別を明確に感じることは難しいのが現状だと思う。
また、報道の自由だけではなく、民主主義における“自由”そのもののことを考えてみよう。
その自由や平等を拡大解釈しすぎた日教組は、その結果として、例えば学級崩壊をもたらしてしまった、といった現状がある。
彼らが過剰に推し進めた“自由”が産み出したのは“無秩序”というカオスだ。
なにも日教組に限ったことではない。
民主主義という錦の御旗の下、戦後教育を受けてきた世代が掲げてきた“自由”は、はたして、"freedom"と"liberty"のどちらなのだろう。
日教組はもちろん、団塊の世代にも少なくないサヨク的成分が、反体制としての自由=無秩序を語ることは多い。
そこに、何らかの状況からの開放としての"freedom"はあっても、制度の中での良識と常識が必要条件となる"liberty"が存在することは稀だ。
そしてまた、ただでさえ左巻きの人が少なくないジャーナリストが“自由”の旗を掲げたとき、その旗は赤い色をしてはいないのか? という懐疑もまた、生まれてしまう。
@kritarou
実際、自由はありませんよ。フリー記者同士は絶対に議論しないようにしているので
このリプライ自体については、彼らが“議論しない”という状況を目の当たりにしたことが無いので、なんとも言えない。
しかし、もし自由報道協会の中に、そうした“不自由さ”があるのだとしたら、それこそ「行動が思想を決定する。その逆は不可」といった懐かしいレトリックを思い出すことになるだろう。
という指摘もあった。
これは自身もフリーランサーである私にとっては、耳に痛い話でもある。
例えば、記者クラブの記者ではありません、フリーのジャーナリストです──といった状況があったとする。
しかし、だからといって、その依って立つところは報道の自由と信念だけである──なんてことは、そうあるものではない。
それがビジネスである以上、原稿の発注者なり、売るアテがあって、その上で動いているのがフリーランスだ──という場合のほうが、圧倒的ではないだろうか。
もちろん、自分の意に沿わない仕事は受けない──という矜持を持つのは当然のことだ。
しかし、♪いいも悪いもリモコンしだい──といった立場を、仕事を、原稿を書くことを、経験したことのないフリーランスは、そうそういないだろう。
また一方では、彼らには、こうした期待を寄せている人もいる。
僕もまた、権力との癒着や、御用媒体としての振る舞いが当然になっている記者クラブと、そのレガシーメディアに、彼らの活動が風穴をあけることを、素直に期待したい。
しかし、その掲げる“自由”は──
“報道の自由”を指向するものなのか?
あるいは、反体制や、無秩序を指向するための“お題目として掲げる自由”なのか?
──という懐疑は、これからも常に持ち続けていようと思う。(了)
あらゆる制限からの解放を指向し、個々人の自由の獲得を目指すことを至高としてきた日本。
是非の概念を道徳として厳しく叩き込み、自由の精神を厳格な規律の中で育てようとするイギリス。
──はたして、どちらが正解なのか?
しかし、その崇高なる目的であるはずの自由が、無秩序という名の世界の果てにたどり着いてしまった日本が、もはや万人にとって住みやすい社会ではないことは、一面の真理だろう。