成田美名子「花よりも花の如く」第10巻 ★☆☆☆☆

casa_kyojin2012-03-17


待望の10巻。
主人公・憲人と葉月の恋をめぐるエピソードが、良くも悪くも物語を遠く離れた何処かに連れ去ってしまった──残念。


主人公の能楽師、憲人は、恋愛というか、他者とのコミュニケーションに対して、あまりにも不器用すぎる(あるいは、超然としすぎている)
こうした人物像に、リアリティを感じるのは難しい。

成田美名子の前作「NATURAL」(上画像)は、主人公を始め、主な登場人物が高校生なので、彼らの言動が青臭かったり、その一々が“青春スーツ*1”だったとしても、それは当然だ。
しかし、憲人は高校生ではないし、大学生ですらない。
数年後には、三十になるという大の大人だ。

憲人が葉月を好きだというのなら、その出口のない逡巡や、行動力の無さは、あまりに“青春”すぎる。
彼の実年齢と比べた時、それは青臭いを通り越して、あまりに子供っぽい。


その一方、憲人には“あまりに老成しすぎ”という印象もあった。
彼の芸に対する真摯な姿勢はわかる。
しかし彼は、何ごとに対しても冷静“すぎる”のだ。
日常生活でも万事その調子、いつもいつも理詰めなだけでは、その体温は、あまりに低い。

ただ、逆説的な言い方になるが、青年期にはそうした“ロジック過多”になる時期も、たしかにある──特に、恋愛に対しては。
好きだから好き、と思うだけでは納得できず、自分が相手を好きな理由、好きであるべき必然を延々と考えたり、テストの前だから告白するのは止めておこうと、理性的判断を装ったり──その恋の手前には“論のための論”が折に触れ登場する。
中学生や高校生、大学生くらいならまだまだ──疾風怒濤時代的な熱病として、そうした“論理武装”が登場することは、いかにもの道筋だ。

しかし憲人は、シュトゥルム・ウント・ドラング的に、夜の街を駆け出したり、手にした携帯電話で何度も何度も着信メールをチェックするようなことは──決してしない。

つまり、恋愛に対する行動は実年齢に対しては稚拙。
しかし、妙に取り澄ましたところがあり、青年的な言動や挙動も見せない──ということだ。

せめて、少年の心を持ったアラサー青年でいてくれたら、その気持を想像することもまた、できたかもしれない。
こうなると、憲人という存在、その行動に、恋する男子としてのリアリティは感じにくくなってしまう。


あるいは、憲人の恋は、高次な精神世界、形而上の神話なのかもしれない。
だとしたら、人生や生活という現実を生きている人間がリアリティを感じにくいのも当然だ。

例えば萩尾望都のバレエ漫画と比べた時、この作品は清冽ではあっても、生と性に欠ける。
萩尾と成田は、その格調の高さでは比肩しうるが、萩尾の残酷なまでのリアリティと比べた時、成田作品は高尚ではあってもどこか脆弱だ。


萩尾的に過酷なリアリティはむしろ、不恰好ではあっても生々しい、羽海野チカの作品にこそ感じられると思う。

そうした生々しい人生を過ごしている下々の人間の一人としては、神話の世界の美しい神の一人に、バッサリ切り捨てられてしまったような気さえする。


とはいえ、今後も楽しみな作品なことは確かだ。
でも、この調子が続くなら、今後は能のエピソードだけを選んで読むかもしれない。

もっとも、三十前にもなってそういう恋ができるのなら、うらやましいかも──と思う部分も少しはある。

とはいえ、キスどころかハグも無い段階で、あそこまでドキドキできたのは──小学生、せいぜい中学生までだよなあ……というのが、どうしようもない実感なのだけれど。


■成田美名子「花よりも花の如く」(第10巻)

*1:羽海野チカ「ハチミツとクローバー」に登場のエピソードより