羽海野チカ「3月のライオン」第7巻 ★★☆☆☆

casa_kyojin2012-04-02


二階堂がピンで表紙という、およそ青年誌コミックらしくない6巻から一転、カバー絵だけでなく、内容も方向性の整理が進み、よい展開になってきたな、というのが第一印象だった。

しかし、冒頭の山崎のエピソードがいけない。

ここのところこの作品は、コミックスの発売にあわせ、その続きが雑誌最新号に──というセールスを行なっている。
そうした営業手法としての“大人の事情”自体をどうこう言うつもりはない。

ただ、この7巻に関して言えば、明らかに冒頭の山崎のエピソードが浮いてしまっている。

その後のエピソードが、いじめの問題、新人王となった桐山、宗谷名人──といった要素を渾然一体と絡み合わせ、絶妙なハーモニーを奏でている一方、山崎と二階堂だけが冒頭だけで切り捨てられてしまっているのだ。

もっとも、連載終了後にコミックスを大人買いするなりし、まとめ読みした時にはそんなことは気にならないかもしれない。

ただ、この一冊だけを考えた時、山崎と、そしてまるでカメオ出演のような二階堂は、なんとも座りが悪いポジションに押し込められてしまっているように見えた。


さて、この7巻で一応の解決を見た、いじめ問題の問題だが、ひなが最後まで戦い続けたことが事態収拾のカギになった、という展開は心震えるものだった。

自分がいじめのサバイバーである立場から言うが、こうした問題に周囲のサポートがあれかし、というのは希望にしても、結局最後は自分自身に帰する問題、というのが真理だろう。

とはいえ──ひなをあんなにも救いたがっていた桐山は、主人公は何をしていたのだろうか。

彼はたしかに、かつては校庭の隅の植え込みに座り込んでいた少年だったかもしれない。
しかし、今やプロ棋士。勝負の世界で日々命のやり取りをしているファイターだ。

作者は、そんな彼を右往左往させるだけだった。
そして、自分の体たらくに自責の念を持つ主人公を、ヒロインというレッセフェールに救済させるのだ。

はたして羽海野チカは、物語の主人公という存在を、一体なんだと思っているのだろうか。


羽海野の前作「ハチミツとクローバー」の主人公は、タイトルとラストのエピソードが示すように、じつは竹本だった。
しかし、こうして“じつは”と書けるくらいに、彼の存在は、物語の進行上で傍流、ともすれば希薄だった印象がある。

この「3月のライオン」は群像劇である「ハチクロ」と違い、プロ棋士が主人公である、という明確なテーゼを掲げている以上、桐山が主人公であるという事実に揺らぎはない。
しかし、いじめのエピソードの展開の中で、彼は主人公として、期待される役割を充分に果たしていただろうか。

物語の中で彼が見せたナイーブさは、学園モノとしてなら、それも少女漫画としてなら、許容される範囲というか、むしろ求められるべきロールだったとも思う。

しかし、これは「ヤングアニマル」に掲載されている将棋漫画ではないのか?

作り手側が、これ以上少女漫画的展開を続けたい、続けるべきと考えているというのであれば、そして、ファンもそれを望んでいるというのであれば、担当の「T田さん」は、自身の人事異動に合わせ、この作品を「花とゆめ」に移籍させるべきだっただろう。
もちろん、そのへんもまた、“大人の事情”が色々とあるのだろうけれど。


ともあれ、作者の羽海野のTwitterアカウントをフォローしているファン層や、アマゾンのレビューに明らかなように、この作品には言わば“感動乞食”といったような人たちが大量に押し寄せている。

そうしたファンの言動は、例えば映画の試写会の後でカメラを向けられ、求められるままに「泣いちゃいました!」と無防備なコメントをするような人や、作品の本質を見ようともしないで“泣ける映画”と決めてかかるような人たち(ex.映画「ニュー・シネマ・パラダイス」)のナイーブさと重なる。

少女漫画だというのであれば、そうしたセンチメンタリズムもいいだろう。

しかし、これだけ、時間やコストも、監修者も贅沢に使い、将棋漫画を(それも青年誌で)描こうというのであれば、もっとシビアな世界を見せて欲しい。

桐山がついに、当代の名人と直接対決することになった今、これからの展開が、リアルな、ハードなものになることを期待してやまない。

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【後日追記】

この評が、現在Amazonのカスタマーレビューの「有用性」ランキングで、断トツの最下位なのはむしろ痛快だ。

ある種の作品に“泣きたがり”な人たちが群がってきているからといって、それが、必ずしも“お涙頂戴”的な安物だとは限らない。

しかし、そうした“感動乞食”には、あたかも物語の上澄みだけをすくって、安っぽく涙に変換するフィルターが装備されているかのようだ。
作品の本質やポイントを絶妙にズラした解釈は、時に芸術的とまで思えたりする。

本作でもいいし、前述の「ニュー・シネマ・パラダイス」でもいい。
多くの“感動乞食”が自分の涙腺を刺激“させている”ポイントは、どちらの作品の本質からもズレていることは、明白に指摘できる。
もっとも、単に泣きたいだけなら、それがいったいどういう物語なのか──といったことは、一切関係ないのだろうけれど。

この作品も「ニュー・シネマ──」も、僕は全身全霊をかけて支持する。
でも、感動乞食たちのセンチメンタリズムは、決して赦さない。
そんな安っぽい涙は、まさに、獅子身中の虫にしかならないからだ。
:2012/4/2


■3月のライオン(7)