「潜水艦イ-57降伏せず」★★★★☆

潜水艦をドラマの舞台として割り切って表現しているのは思い切りが良く、むしろ好感を持った(例えば艦内はずいぶんと広い)
また、フランキー堺の存在感はさすが。


以下は、兵士の「死生観」から見た大東亜戦争について、本作から考えたこと。



「兵士の本分とは、敵を倒すことではなく、自らが生きのびることである」
この命題の原典は残念ながら忘れてしまった。多分、日本のものではないだろう。
本作で河本艦長(池部良・写真左)が基地に残した乗組員に残した辞世(?)が「散る桜 残る桜も 散る桜」だったように、とかく日本では昔から「武士道は死ぬことと見つけたり」なのだから。

ところが、武士道の象徴が桜になったのは、江戸時代も後期になってからのようだ。
元々は咲いたらパッと散ってしまう桜は、むしろ武士には敬遠されていて、「武士かくあるべし」とされていたのは、どうも松らしい。

武士たるもの、松のように冬の寒さにも夏の暑さにも、変わらず青々とした葉をたたえ、がっしりと枝を張り、根を下ろしているべし──これなら「生きのびること」という命題とも相通じそうだ。

松的価値観から桜的なそれへの転換がなぜ起こったのか。それは一つの閉息状況に対する絶望でもあったようだ。

例えば主君が死亡したときに切腹して後を追う殉死。
幕府が禁じても後を断たなかったという現実には、それだけ忠誠を誓っていたというよりも、もう生きていてもしかたがないという自暴自棄から、ということも多かったらしい。

殿様の死で藩が改易でもされてしまえば即失業。
大平の世でリストラされてしまえば、路頭に迷って社会的立場を失い、経済的にも進退極まってしまうからだ。


大東亜戦争末期、日本軍は特攻や玉砕と、生命(というか死)の浪費を繰り返していく。
そこには江戸末期と同じ、一つの時代が行き詰まったことによる閉息感が重くのしかかっていた面もあったのではないだろうか。



本作のラスト。敵艦との交戦を主張する専任士官(三橋達也・写真中)を殴りつけてでも停戦し、外交官親子の身柄を連合軍側に届ける河本艦長。

搭乗員に礼装をさせ、自身は家族の写真を胸に抱く。
おそらくは、司令部からの作戦中止の無線が入っていようといまいと、敵艦と刺し違える覚悟だったのだろう。
そして、外交官親子を載せた艦を攻撃することは考えていなかっただろうから、二艦撃沈という結果は、初期の目的を達成したといえる。

それでは、二度目の魚雷攻撃が成功して、体当たりをしなくても済んだ場合、彼は再び白旗を揚げただろうか?
──おそらくはノー。

それは「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」という戦陣訓のためというよりは、人間魚雷「回天」母艦の艦長として、少なくはない若者を死地に向かわせたことへの責任感や、彼のかつての乗艦だった戦艦大和は、沖縄特攻で既に沈んでしまっていることからもたらされる意識にこそありそうだ。
また、強行偵察に失敗して自決した甲板士官は、戦友や部下の死を念頭に、直接的に死に急いでいたという描写もされていた。



何が彼等をそこまで追い立ててしまったのか、ということを思わずにはいられない。

あの戦争が無意味なものだったとは決して思わない。
しかし、アリューシャン列島からオーストラリア、インド洋に至るまで戦線を拡大した結果、日本は自分の首を締めてしまい、とどのつまりが行き場のない閉息感の地平だったということだろう。


全ての生命に尊厳があるように、全ての死には尊厳がある。
しかし、幾多の河本艦長にそうした「決断」をさせてしまったあの戦争に、全面的なプライドを持つことは難しい。

ただ涙することも、ただ責め立てることもやめよう。だが、何が正しかったのか、何が間違っていたのか、それを見つめる冷静な視点だけは失わずにいたい。

佳作ではあってもマイナーなこの映画が、「ローレライ」効果? で、CSで放映されたのはうれしい誤算。
でも、肝心の「ローレライ」の方は……予告編を見る限り微妙、というのが正直な感想。
リアルなはずの特撮が、妙に嘘っぽいのはどうしてなんだろう。


■「潜水艦イ-57降伏せず」

白黒映画のパッケージに色を使うなとは言わないけれど──でも、こういう映画じゃないよなあ……ってデザインになってるDVD。