「ミリオンダラー・ベイビー」★★★★☆

casa_kyojin2005-05-26


壮絶な人生に対する「感動」、イーストウッド、フリーマン、そしてスワンクの「名演」。そして、大半の日本人にとっては、認知、あるいは実感することが難しい様々なディテール


まず、この映画は難しい。

「難しい」映画というと「チョコレート」を思い出す。でも、あの映画は「人種差別」にポイントがある、ということがわかるだけ、まだシンプルだったと思う。
この映画も同じように、あるいはそれ以上に日本人にとっては難しい映画だったのだ。

キリスト教、それもアイリッシュカトリック。ホワイトトラッシュ。テキサスブロンコの黒人差別。どれもこれも、日本人が肌で感じることはとても難しい。

その上、尊厳死と宗教観との相対、葛藤とくるのだから、おおかたの日本人は「ポカン」とするしかないだろう。



アイルランド系移民、というのが大きなポイントになっている(らしい)この作品で、しかしそれは声高に語られない。
アメリカ社会では「デフォルト」になっているキーワードなので、説明セリフが出てくるような無粋な演出は無用なのかもしれない(そして日本人には届きにくく、理解しにくくなってしまう)


例えば、フランキー(クリント・イーストウッド)の通う教会のケルト十字。
彼がアイルランド系で、カトリックがマイノリティとして存在しているアメリカの中でもさらに少数派のアイリッシュカトリックだということがわかる。

そして、劇中ではほとんど登場していなかったが、彼の「ダン」という苗字もアイルランド系に多いものだ。


そして、前座ボクサーのマギー(ヒラリー・スワンク)が、なぜ執拗にフランキーに指導を受けることにこだわったのか? これも、彼女がアイルランド系だったから、という側面があったのだろう。

フィッツジェラルドという姓は、これもアイルランド系に多いものだし、彼女の生まれたミズーリ州アイルランドからの移民が多い土地(人口比10%以上)だ。

と、そこまでは「トリビア的」に理解することができる。
しかしもちろん、それが本質的根源的に意味するところを、体の奥底から感じたり受け止めたりしたことは一度もないし、多分これからもできないのだろう。


日本人の多くにとって「難しい」というのはそのへんだ。
そして、ホワイトトラッシュといった人種差別的なキーワードやディテールも、それと同じベクトルで機能してしまう。



結果としてこの物語は、表面的構造的にシンプルな「感動」のストーリーとして受け止めらるわけだから、たくさんの賞賛と、それにインビジブルに内包された多くの「勘違い」を被ることにもなったと思う──少なくとも日本においては。


感動するストーリーか? 感動します。

アカデミーに値するか? イーストウッドも、フリーマンも、そしてスワンクもすごいです。


しかし、この映画はただただ感動させられるだけではすまない、ハードでヘビーなものだ。むしろ、ちょっとハリウッド流の感動やエンタテイメント「らしくない」印象もある。
「人生はこういう(過酷な)もの」「人間とはこういう業の深いもの」といったラジカルな部分を、これでもかとぶつけてくるのは、むしろヨーロッパ映画、それもカンヌの審査員が好きそうなトーンだろう。

観客は、突きつけられた「生」「人生」というものに、「シンパシー」を持ったり、持ちたくなったりする。そういう仕掛けにくすぐられることも、映画ファンにとっての快感だったりすることも一面の真実だ。


しかし、やはりこの映画はアメリカンクロニクルでしかない。
ヨーロッパ映画と同じトーンであるように見えて、限りなくドメスティックに語られた物語なのだ。

それは、彼等の「スポーツ」が、「平和」が、ワールド・スタンダードを自負していながら、孤高の存在になっていることと同じ図式だ。
日本人がこの映画の本質にたどり着けないというのは、残念なことであると同時に、とても幸せなことだとも思う。



かといって、この映画から全く感動が全く届いてこないというわけではない。

そしてその多くは、スクラップ(モーガン・フリーマン)という存在によってもたらされていると思う。
彼の存在そのものが深みを伴ったペーソスを持ち、ジムの床にモップをかける彼の佇まいはただそれだけで胸に響く。


彼の存在を一言で表すとしたら、それは「哀しみ」だろう。

まず、彼の名前。

もちろん元々はリングネームだったはずだ。おそらく、彼は対戦相手を「スクラップ」にしてしまうようなハードパンチャーだったのだろう。
しかし、隻眼の雑役夫になってしまった彼の現在は、自分自身がスクラップになってしまっているようなものだ。

フランキーとの微妙な距離、これも観るものの心を打つ。

長年の親友、であるはずなのに、どうして彼等の間には微妙な空気が存在しているのか。
どうして彼は穴の空いた靴下を意固地になって履いているのか。

あの二人の関係性をあれこれと思いやると、コミットメントとデタッチ面とのジレンマが、切ない気持ちにさせられてしまう。


そして、僕が一番グッときてしまったのは、「ついグラブをしていない(利き腕の)左を一閃してしまう」シーンだった。
あの一瞬に、ボクサーとしての人生の宿業、原罪が濃縮、象徴、体現されていたと思う。それが悲しくもやるせなく、そして切ないくらいにビシビシ心に響いてきた。


そして、経験したことすらないボクシングというスポーツにそうした感情移入をできたようには、キリスト教国であるアメリカ国民にはシンパシーを持てなかった。

やはりこの映画は、日本人には立ち入れない(立ち入る必要も無い)ある種の世界に内包されている「限定的」なものだと思う。



それから、トンデモ解釈をすると、デンジャーという本筋とはまるで無関係なキャラクターは、ブッシュ大統領の象徴、彼に対する面当てでは?

・テキサス出身。
・「ニガーを差別しない」とポンポン口にする能天気
・とっくに引退したチャンピオンに「挑戦する」という蛮勇と認識不足、思い込みや妄想の激しさ。
・そんな彼にスクラップが諭す「誰でも一度は負ける」という箴言
・そして、厚顔無恥にも戻ってくる。(そしてそれを「幽霊」と呼ぶスクラップ)


これを「カウボーイ」に対する「皮肉」と受け取るのは考え過ぎ……なんだろうなぁ。

そしてまたやってくれた戸田奈津子


「4ラウンドの試合」「6ラウンドの試合」 ──これ、なんのことかわかりますか?


それぞれ日本語では「4回戦」「6回戦」と呼ばれている試合のことです。
前座はフルラウンドの試合をさせてもらえない、ということで、「4回戦ボーイ」なんて言葉もあります(「駆け出し」とか、単純に「弱い」って意味も)


さすが、なっち。日本語には無い言葉を無理矢理字幕にしちゃうんだからスゴイ。

ロード・オブ・ザ・リング」や「オペラ座の怪人」の「誤訳」問題では、「字幕には字数に制限があるから意訳もします」なんて言い訳をしてたけど……5字も多いじゃん。


■ミリオンダラー・ベイビー