「マジェスティック」★☆☆☆☆

casa_kyojin2007-09-29


「感動」や「奇跡」のカモフラージュをまとった国策映画。

彼等の「正義」や「勇気」はいつも戦死者や退役軍人が与えてくれる。
当時では反体制主義ですらある主人公を、「愛国者」に祭り上げる強引な演出は、さすがのアメリカ。

この二人のカラミ(画像)は全編を通して素直によかった……にしても、アメリカ的極右映画でどれだけ感動演技を見せられたとしても、日本人としてはリアクションに困ってしまう。



自身の映画シナリオを「あの映画は僕の『怒りの葡萄』」とまで言い切る主人公が、レッドパージ公聴会では、合衆国憲法の掲げる自由を高らかに読み上げる。「アカ」とされた人物にも、「スミス都へ行く」ができるのが、自由の国アメリカなのです! というストーリーは、美談として充分な成り立ちをもっている。

しかし、レッドパージがハリウッドに何をもたらしたのか? 史実とかけ離れた本作の内容には、唖然呆然するしかない。


ピーター(ジム・キャリー)は、炭坑労働者を題材にした自作を「怒りの葡萄」と語り、社会主義シンパ──少なくとも労働者の視点に立ちシナリオを書いた、と描写されている。
つまり、彼は自分のシナリオが、その時期のハリウッド=アメリカでは焚書の対象になるようなラジカルな作品である、という自覚を持っていた、ということだ。

となれば、彼の転向が描写されていない以上、ピーターは「反体制的主張」を持ちながら「民主主義のメカニズム」を存分に行使し、しかも「愛国者」として行動した、という矛盾した存在になってしまう。
時代と社会にそぐわず、焚書にされた作品に自作をなぞらえる彼が、戦死者への勲章に敬意をはらう人たちと同じ地平に立っているというのでは構造的に無理があるし、いささか荒唐無稽だ。

本作のそういった美談的成り立ちは、現実のレッドパージとあまりにも懸け離れている。喜劇王チャップリンが、労働者や社会的弱者の視点に立った作品を世に出していたことを引き合いに国外追放にまでなったのを初め、失意のままにハリウッドから放逐された映画人がどれだけいることか……それが史実だ。
当時のアメリカで、ピーターのような主張が「愛国的」と受け入れられる土壌が存在しなかったことは、歴史が語っている。


たしかに、本作はフィクションだ、と言うことはできる。しかし、それでは自らの歴史に対してあまりにも無自覚無反省で、我田引水が過ぎる。それでは時の権力者が恣意的に歴史を編纂させたような、古代や中世の国家と同じやり方だ。

参考:ハリウッドにおけるレッドパージで、密告者として暗躍したエリア・カザンについて

エリア・カザンのプロフィール
エリア・カザンのやったこと
映画『アビエイター』がアカデミー賞で惨敗した訳

また、ナショナリズム国家主義)とパトリオットイズム(郷土愛)を恣意的に同一視する脚本、演出も、プロパガンダとしての本質のスリカエに一役かっている。

ローソンタウンの人々が国家主義者でないのはもちろんだ。しかし、そこには強い郷土愛と自負があるだろう。
そして、この映画をプロパガンダとして成立させているのは、反米活動委員会をも悪役の狂言回しに仕立て上げてしまう政治的ナショナリズムであり、コミュニティに自発的に発生するパトリオットイズムではない。

国家や国土、民族を愛するといった原初的な感情は自然なものであってほしい、という考え方なら私も賛成だ。しかし「アメリカの正義」のためには、史実もなにもかも翻案してしまうといった中華的ナショナリズムを、わが町とわが隣人を愛するという自発的パトリオットイズムと同じだとするのは、無理が通って道理が引っ込む感がある。

史実にフタをし、レッドパージを虚飾でデコレーションした作品をエンターテイメントにできるのであれば、洋の東西や時代を問わず、都合の悪い「歴史」はことごとく「娯楽映画」に作り替えられていくことだろう。
民主主義の自由の国、アメリカは「アカ」の主張も受け入れます。その「アカ」に勇気を与えたのは、ヨーロッパ戦線の英雄として戦死した合衆国軍兵士です! そう愚直に主張する一本調子を、百万歩ゆずって潔しとしたとする。 しかし、それを作品として成立させてしまえば、単なる「アメリカの正義」の押し売りであり、映画としての「死」だ。

かつては反ナチプロパガンダですら、映画としてのスタイルも、美学も持っていたことを思えば、反イスラム戦争を継続中の現代のアメリカは、依って立つところも、信ずるところも、全てを失って迷走しているのだろうか? といった印象を持つ他ない。

例えば、「カサブランカ」を、「サウンド・オブ・ミュージック」を、反ナチプロパガンダの一言で片付けることは難しい。それは映画制作者の矜持あってのことだろうし、史実を曲げてまで自らの主張だけを声高に語る強引さがなかったからだ。

ダラボンが前二作(「ショーシャンクの空に」、「グリーンマイル」)の成功で得たものと失ったものを考えてしまう。
たしかに、彼の指向した「奇蹟」や「感動」はたしかにこの作品に込められているかもしれない。しかし、それ以上に、どんなパトロンがどんなメッセージを語らせたがるようになったのか……という危惧もまた持つしかない。
そういう意味においても、ダラボンは名実共にハリウッドメジャーに席を列するようになったのだろう。大変悲しいことだけれど。

この映画をよりによって「ニュー・シネマ・パラダイス」と同列にしたがる人が少なくないけれど、そういう人が好きなのは「映画」でもなんでもなく、単なるキーワードであり、「器」「ハコモノ」としての「映画館」でしょう。
そして、そういう人たちはトルナトーレ的真理からは最も遠いところにいるはずです。



さて、2002年7月の朝日新聞の報道によると、チャップリンへのナイト叙勲が初めて検討されたとき「追放した米国への配慮から(叙勲は)実現しなかった」ことが、英国政府の公文書によってあきらかになった。

駐英英外交官の叙勲反対のコメントとして「(チャップリンは)中ソ等共産陣営の要人と会食するなど米国の神経を逆なでしている」といった内容のものが紹介されている。


もし、チャップリンその人が社会主義者だったとして、その作品が「アカ」だったのかどうか? ……少なくとも、上記に例示した「名作」と比肩しても、遜色ないだけの「スタイル」や「美学」を、持っていたことだけはたしかだろう。

左右の違いはあるにしても、何かにつけて過剰な本作品とは全く異なる位相を持っていることには疑問が無い。


■マジェスティック 特別版