「マイティ・ハート 愛と絆」★1/5

casa_kyojin2007-11-14


ど真ん中の豪速球。オーバー100マイルで親米、イスラムフォビアプロパガンダ


イスラム=アラブはテロリストで、アラブが毛嫌いしているユダヤイスラエルは被害者。

アメリカの反イスラム戦争に協力しているパキスタンは、イスラムの中の「いいもの」で、そのパキスタンと対立しているインドは「悪者」

ここまで「敵」と「味方」をベタに色分けしてしまうのは、つまりは「そういうこと」だからだろう。



以前、「マジェスティック」の評文でも書いたように、たしかに「カサブランカ」は第二次大戦中の1942年に作られた反ナチプロパガンダ映画だった。

でも、あの映画が今でもこれだけ多くのファンを魅了しているのは、それが単なるプロパガンダにとどまらず、映画としても類い稀な美しい物語を持っていたからだ。

それが、映画制作者のプライドというものだろう。


これもパックスアメリカーナプロパガンダ映画だった「マジェスティック」は、パトリオットイズム(愛郷心)とナショナリズム愛国心)を意図的に混同させ、家族愛や隣人愛といった人間としてのプリミティブな感情まで愛国心に結び付けようとする作為があった。

もちろんそれは詐術でしかない。とはいえ、そこには欺瞞ではあっても、それとしての「物語」くらいはあった。


ところが、この映画は、役割としての「敵」と「味方」に白黒をつけすぎた、単なる勧善懲悪ものだ。
イスラムが悪代官や越後屋で、アメリカが水戸黄門? 冗談じゃない。

そもそも、現実社会に「絶対正義」なんてものは存在しないのだ。



もちろん僕はテロリズムを肯定しているわけではない。
それと全く同じように、アメリカの「反テロ戦争」も受け容れられないだけだ。

自分の国が戦争をしているなら、こうしたプロパガンダを世界に発信してくれるような国こそたのもしく、頼りになる。
でも、僕はアメリカ人ではない。
そして、あの戦争は、我々の戦争ではない。

アメリカとイスラムの戦争は、どうにもこうにも彼らの戦争であって、自分の身に置き換えて考えることは難しい。

でも、あなたは、どちらの受け取り方をしていますか?

バグダッドを「空爆している」のか、バグダッドが「空襲されている」のか。



唯一の救いは、マルセル・ザイスキンドの抑制されたカメラワークだった。

この映画は実際に事件が起こったパキスタンでロケが行われているが、街の雑踏のとんでもないカオスが、妙に静謐なカメラ・アイで撮られており、目をとらえて離さなかった。
このカメラがなかったら、途中で席を立ってしまっていたと思う(なにしろ、実話がベースの話なので、結末はわかっているわけだし)

それから、テロリストのアジトに突入! なんて場面ではカメラも当然一緒に兵士たちと一緒に動き、そしてライフルで銃撃戦になったりするのだけれど、そのときのカメラもしっかりと落ち着いた客観的な視点なのがよかった。

これがもう阪本順治(というか、彼の映画でよくカメラを回している笠松則通というべきか)だったら大変ですよ。一緒になって走り回って、転げ回って、ぐらんぐらんしちゃう。
「新・仁義なき戦い」「KT」、それに「亡国のイージス」……狭い廊下で上下左右にあばれる画面で観客を酔わせてどうする?


そのへんは、親米プロパガンダだろうとなんだろうと、流石のハリウッド・クオリティ。大阪のオッチャンの映画とはまるで違う、ってことなんだろう。


■マイティ・ハート(原作)


ところで、同名の映画原作の著者で、アンジェリーナ・ジョリーが演じたマリアンヌ・パール(上画像)は、創価学会員だ。
日米同盟堅持の姿勢を持つ公明党にとっても、この映画は格好のプロパガンダになるだろう。

映画の中で、マリアンヌが「仏教徒」であることを明示していたのは二カ所。
仏壇に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えるシーンと、結婚式の回想シーンで彼女の父親が「仏教徒云々」というセリフだ。

実際は彼女は仏教徒ではなく、創価学会員だったのだけれど、劇中ではハッキリそれとわからなかったので、アンチ・インドのニュアンスを強めるためのスパイス? と不思議に思っていた。
もしかしたらこれは、画面に大映しになるナイキのスウッシュや、Gショックと同じ類いのプロモーションだったのかもしれない。


ちょっと調べたら、原作本の日本語版(上画像)は学会系の出版社から出ているし、日蓮正宗大石寺を攻撃しているWebサイトにはマリアンヌが事件の真っ最中に学会員宛てに送ったメールが紹介されていた。

聖教新聞もこの映画を、10月2日という非常に早いタイミングに文化欄で紹介している(「恐怖と憎悪に打ち勝った愛と絆」
この記事によると、タイトルの「マイティ・ハート」も、池田大作の言葉が下敷きになっているようだ。

曰く「国籍も宗教も政治的にも異なる彼らが、やがて単なる職務や国家の利害を越えて人間的な絆と正義感で団結していくドラマは、この作品の重要な要素である」



そういう映画なら僕も見てみたかった。心からそう思う。



【追記】


アンジー衝撃の「ナンミョーホーレンゲーキョー」のシーンですが、「仏壇に創価学会のマーク(?)がくっきり」(渡部亮次郎の「頂門の一針」第997号)だそうです。

やっぱりスウッシュやGショック大映しと同じプロモーションだったんでしょうか。

それから、「アカデミー賞候補」って宣伝コピーがつけられてますが、この映画、アメリカでは興行的に惨敗。
この散々な成績が、米「フィルム・スレット」誌が選ぶ「最もイケてないセレブ」の2位にアンジーを押し上げる原動力になったとのこと。

ってことは、「全米が泣いた」「全米──州上映禁止!」みたいに根拠の無いインチキコピーだった、ってことでしょう。