東京ローカルとしてのユーミン

casa_kyojin2012-02-02


NHK「SONGS」に山本潤子が出演。

松任谷由実の曲のカバーも多い彼女だけれど、なんとこれまで“山手のドルフィン”には、行ったことが無かったという。

ソーダ水の中を貨物船が通る──

横浜、港の見える丘公園の近くのレストラン、ドルフィンは、ユーミンの代表曲のひとつ「海を見ていた午後」に登場する有名なスポットだ(画像)


僕もまた、ある晴れた日の午後にドルフィンを訪れたことがある。

「最後のデートは、あの店に連れてって──」

あの日の、停めにくい駐車場を、今も切なく思い出す。



ともあれ、そうした“聖地巡礼”は、ファンにとってのお楽しみのひとつだ。

観音崎の歩道橋(「よそゆき顔で」)を探しに行ったり、立教女学院でのミサでは、パイプオルガンの響きの中に「翳りゆく部屋」のイントロのイメージを探した(音源としては別の教会のものだけれど)

♪カンナの花が揺れて咲いてた(「カンナ八号線」)のはどのへんなんだろう? と環八を通るたびに思うし、用賀のデニーズだって、そんな“聖地”のひとつに数えていたりもする。


僕がユーミンの世界の中の“東京目線”を意識するようになったのは、彼女と同世代の東京の人たちと接するようになったこともきっかけだった。

例えばある女性は、大学生になって親に買ってもらったギャランで、逗子のデニー*1に朝ごはんを食べに行った──なんて話を聞かせてくれた。
そんな話を聞けば、それこそ「よそゆき顔で」に登場する♪ドアのへこんだ白いセリカ──を思い出してしまう。

そんなふうに、ユーミン的世界に登場する横浜や湘南は、東京ローカルではあっても、横浜ローカルではなかった。
その横浜は、あくまで東京から第三京浜で出かけていく先だったのだ。

そうした横浜や湘南(via 第三京浜)は、あたりまえだけれどクレイジーケンバンドのヨコハマヨコスカとは全然違う。そして、サザンの湘南とも全く違う。

そうしたローカル性というのは、東京というか、特に世田谷に住んでみて、初めて実感できた部分でもあった。

ところがユーミンは、バブルの頃から、妙に大風呂敷になってしまった。

もちろんそれは、普遍化ということだったとも思う。
そして、ミリオンセラーが“当然”とされるようになった時期以降、世代や世相といった曖昧模糊なものを実に絶妙に切り取るユーミンの視点は、スケールをアップし、鳥瞰、俯瞰の度合いを強め、東京に設置した定点カメラのような視点は、だんだん失われていってしまった。

今思えば、そうした拡大、膨張の始まりは、1980年の「SURF & SNOW」で苗場プリンスに足を伸ばしたあたりからだったのかもしれない。

このアルバムの前後、79年の盛岡旅行(「緑の町に舞い降りて」アルバム:悲しいほどお天気)と、81年の神戸のご当地ソング(「タワー・サイド・メモリー」アルバム:昨晩お会いしましょう)では、やはり印象が随分違うと思う。

やがて、まさにバブルに突入していた88年のアルバム「Delight Slight Light KISS」では、舞台装置としての“東京ローカル”を意識できる曲が、ついに存在しなくなる。

ユーミンの絶頂期を代表する曲「リフレインが叫んでる」を収録するこのアルバムで、そういう明らかな変化があったのは、なにやら象徴的だ*2



僕は中学生の頃、81年の「昨晩お会いしましょう」でユーミンに出会い、さかのぼり、そして次作、82年の「PEARL PIERCE」からはリアルタイムで聞くようになった。

東京に出てきてから、前述のような出会いの中で、別の聴き方をするようになっていったけれど、僕にとってのユーミンというのは、86年の「ALARM à la mode」までがギリギリだったのかもしれない。

でも、今でも、いつでも、スノーボードを積んだ車を関越に走らせる時は「SURF & SNOW」を持っていくことを忘れない。
そして、ユーミンを聴けばいつでも、自分がまだ“恋をしていたころ”を、思い出すのだ。

そして、一番好きなアルバムは、これ。

“A面”二曲目のタイトルナンバー「真珠のピアス」のイントロのギター(鈴木茂?)に強烈な印象がある。

“東京ローカル”としてのモチーフや舞台としては、後楽園ゆうえんち、日比谷公園や横浜中華街、新宿駅が登場するとも。


■松任谷由実:PEARL PIERCE(1982年)

*1:ここも閉店してしまったけれど

*2:「リフレインが叫んでいる」は横須賀の、葉山に近い海岸が舞台だとも。ただし、作中に明示はされていない。