浜町藪そば ★★☆☆☆

casa_kyojin2012-01-11


茹でや水切りなどの仕事はキッチリしている。
しかし、特に香りが高いわけでもない蕎麦は、ごく平板な味わいでしかない。
粉は産地や品種も吟味して──といったマニアックな蕎麦屋が増えた今となっては、特筆するところはなく、この店の蕎麦でなければいけない理由は見当たらない。

そして何より、高い!

神田や浅草の藪にしても、決して安いとは言えない。
しかし、それらの店と比べて圧倒的にキャラクターの薄い、個性の乏しい蕎麦と汁、いかにも藪的な盛りの少なさで、せいろ630円は高いと感じさせられた。
まして、鴨せいろを頼んだりすると、1,580円もする。
脂身も小ぶりに刻んで入っていたりと、丁寧で美味しかったにしても、金額的にひとまずひっかかる。
また、せいろと同じ値段の板わさも、厚さ1センチくらいのものが二切れと、割高感が強い。

結論として、とにかく、仕事はキッチリとしているが、コストパフォーマンスが低すぎた。

明治座観劇のついでの観光気分や、池波正太郎聖地巡礼といった向きには需要も価値もあるとは思うが、真っ当な仕事がなされた極めて普通の蕎麦を食べるためだけに、わざわざ人形町まで足を運ぶ必要も無いだろう。


■池波正太郎の食まんだら(佐藤隆介:新潮文庫)

池波正太郎の書生だったという著者が、池波にちなんだ店や宿を再訪し、あの味の「今」を亡師へ報告する──というこの本に、たいめいけん野田岩に並んで、浜町藪そばも登場する。

さて、どんなことが書いてあることやら……。

浜町藪そば

食べログ 浜町藪そば

サヨナラ、二軍さん

casa_kyojin2011-11-18


引越しでいろんなものがチャラになっちゃう話」の続きを、もう一回だけ。
例によって、ひどく個人的な話です。



内田春菊がずいぶん前の作品で、“二軍の男”について描いてたことがある。

これは、いかにも内田春菊的なネーミングなんだけど、“二軍”とは、ダンナや彼氏のいる女性にばかり、ちょっかいをだそうとする男性のこと。

二軍は──ゼロから彼女を作るだけのパワーや甲斐性はない。
けれど、彼氏がいたり、結婚してても“ハードルが低い”つまりは“ユルい”オンナに順番にあたっていけば、不思議とうまくいく──そんなふうに、最初から真剣勝負をしないオトコたちのことだ。

そして、そういう男にやっと彼女ができて、晴れて“一軍”になったら、今度は自分の彼女に二軍のオトコどもが群がってくる──というのがオチだった。

いかにも内田春菊的なエピソードなんだけれど、だからといって、そう特別な話というわけでもないと思った。
むしろ、男女の別なく、若いころなら誰でも経験したことがあるんじゃないだろうか。
自分が当事者じゃなかったとしても、身の回りにそんな話が転がっていたことはあるだろう。
それこそ、“山火事”のように(「山火事」の初出:村上春樹「回転木馬のデッド・ヒート」


僕自身、二軍だったことがある。

ステディな彼女を作る、って真っ向からの勝負がどうしてもできない。
生きた球に真っ向勝負する覚悟ができないというか、試合でバッターボックスに立てないイップス状態。
そんな、やさぐれた感じ。ダメダメ、グダグダな自分のことなら、まざまざと思い返すことができる。

だから、そういう“打率”の稼ぎ方を、どうこう言うつもりはないし、今だって、誠実さを誰かに説いて語れるような、青天白日な人間でもない。

でも、そういう人たちに限って、なぜかしら一つ所に集まってるのはどうしてなんだろう(それこそ、SNSならmixiだったりとか)

その上、そういうコミュニティでは、あっちの元カノや、そっちの元カレが、順列組み合わせをいつまでもくり返してたりもするんだから、なんだかウイルス濃縮が起こりそうな感じもする。

──でも、息苦しさを感じてるのは、こっちだけらしい。

残念だけど、そういうところにいつまでも出入りしてられるほど、白髪のオッサンには体力無いよ。


そんな、関係性の“循環型社会”で、いつまでもグルグルしている人たちにも、チャオ!


あと、偉そうなことは言うつもりはないし、そんな御大層な身分でもないけど、ひとつだけ。
客商売するつもりなら、そういうのはいい加減にしといた方がいいと思うよ。

やっぱり、あともう一つ。結婚前にがっつくのも止めとこうね。






さて、“引越し”の話はこれで、おしまい。

ありがとう。
さようなら。



──そして、こんにちは。


■内田春菊「彼のバターナイフ」

内田春菊の“二軍”の話は、この本に出てきたのだったか……思い出せない。
あるいは、「私たちは繁殖している」の1巻だったかも。

「私たちは繁殖している」は、2巻、ギリギリ3巻までは痛快な妊娠、出産&育児本だった。
しかし、巻を重ねていくにつれ、前夫への罵詈雑言漫画になっていく壊れっぷりが凄まじい。
あまりのひどさは、それはそれとして見る価値があるくらいだけど、お金を払って読むものじゃない。
お金払ってホームエレクターの悪口読まされてもなあ……。

震災、原発後にその立ち位置が評価されてもいる「通販生活」だけど、前夫罵倒期に入った内田春菊に連載をさせてた、ってあたりには、なんともサヨク的、フェミ的なねじれを感じたりもしちゃうわけです。

引越しでチャラにできるもの

casa_kyojin2011-11-15


ひさしぶりに、ごくごく個人的な話。


引っ越しの良い所は、色んなものをチャラにしてしまえる事だ──と言っていたのは村上春樹だけど、本当にそう思う。

これまでの人生、どれだけ引っ越したのかな……数えてみよう。
北海道→北海道→北海道→北海道→埼玉→北海道→札幌→世田谷→北海道→北海道→世田谷→世田谷→世田谷→東京→世田谷→東京→神奈川→杉並→練馬

──30年弱で18回っていうのは……多い方なんだろうな。

立ち退きを二度経験したりとか、中には望まない引越しもあった。
一番長く住んだのは、実家を除けば、ひとつ前に住んでいた杉並の七年。
立ち退きにならなかったら、まだ住んでただろう。

村上春樹のいう「色んなもの」というのは、とどのつまり、人間関係に行き着く。

引越しには「近くに来たら遊びに来てくださいね」なんて挨拶がつきものだけど、こんなのは枕詞みたいなもので、凡そ意味が無いことがほとんどだ。
僕自身、実家や学校の寮以外で、ご近所づきあいだけの人間関係が引っ越してからも続いたことは唯の一度もない(ご近所さんだというだけで、それ以上のつきあいになった人もまた、いない)

おそらく、ご近所さんとのコミュニティというのは、そのときには有用かもしれないにしても、どこか一過性のものなんだろう。


そして、ネット社会では、SNSというコミュニティが、まさにそうした環境をバーチャルになぞっている。

mixiがすっかり引き潮になってしまった現状を、ストーカー行為が──とか、ソーシャルゲームへの特化が──と説明することは簡単だ。
でもまあ、みんな飽きちゃったから引っ越した、ってだけの話かもしれない。

その街にも、その家にも、長く住み続けるだけの魅力も理由も無くなってしまったから、もっと魅力的な街の、もっと魅力的な物件に引っ越す人が増えた──そんな気がする。

そしてそこでは、「色んなものをチャラ」の法則が、リアル・ワールド以上に、じつに便利に活用されている。
みんな、関係性のスクラップ・アンド・ビルドに忙しい──というか、人間関係の焼畑農業を続けることに、抵抗がない人が増えたんだろう。



さて、またお引越しだ──といっても、メールアドレスの話。

今まで使っていた転送メールアドレスがサービスを終了してしまうので、あわてて新しいアドレスの環境を整えている。

この“引越し”で、望むと望まずにかかわらず、多分いろんな人間関係が“チャラ”になるのはリアルな引越しと同じだ。
新しいアドレスを報せても、もうなんのリアクションもくれない人もいるだろう。
そして僕だって、新しいアドレスを知らせない、という選択をする相手もいる。

誰かとのメールのやりとりがとぎれるということは、死刑宣告が遅れてやってくるようなものだ。
Facebookの友達、twitterのフォロワーから突然消えるのも、それと変わらない。
そんなものが届いた頃には、頭と胴体はとうにギロチンで泣き別れになっている。

人間関係で、切ったり切られたりっていうのは、当然だけど、それ相応の理由がある。
わかってはいる。
わかってはいるけれど、やっぱりせつない。

──たとえ僕が、時に同じことをするとしても。


僕だってそんなことはしたくない。
でも、スルーするにしても、我慢するにしても、限界というものがある。

見えないように、聞こえないようにやってるつもりなんだろうけど、最後は誰かの耳に入ることになるってわからないのかな、いい大人なのに。


僕はときどき、自分が幹事になって、美味しいものを食べにいく集まり──なんてのをやっている。グルメ秘密結社──なんて“ごっこ遊び”のつもりだ。
そこに、今年から参加するようになった人が、メンバーに借金の無心をして回っていることがわかった。

金額はなぜか、判で押したように五千円。
決して大きくはないけれど、何度も繰り返せば万単位になる。

美味しい物が好きなオトナが集まって、浮世の義理から離れた所で、珍しいものや、人数がいないと食べられないような料理を楽しむ──なんて場を、借金や寸借詐欺の類のターゲットにされたのではたまらない。
なんだか、みんなと一緒に世話をしてた公園の花壇から、花をブチブチ刈りとられてしまったような気分だ。

その人は、これまでの人生で、そんなふうに“小銭を集めてチョン”といった類の焼畑農業を繰り返してきたのかもしれない。
世の中にはそういう人がいるものだ、というのはわかる。

しかし、決して関わりたくない人種のひとつだ。


胸の中のPNGリストに、また名前が増えた。


■シュパーテン:オプティメーター

“グルメ秘密結社”が今年最後に集まったのは、5月の日比谷のオクトーバーフェストでした。
このシュパーテンも生で飲めて、ほんとに楽しかった……んだけどなあ。

「E.T.」★☆☆☆☆

casa_kyojin2011-10-29


2002年、「E.T. 20周年アニバーサリー特別版」が公開されました。

パペットや着ぐるみだけで表現されていたE.T.を、最新のCGを用いて撮り直したりしたもので、この再公開だけで約4億6千万ドルの興行収入を記録しています(オリジナル版公開当時はの興収は約8億ドル)

E.T.の登場シーンだけではなく、子供たちの追跡劇の場面で、警察官の手から拳銃やショットガンが取り除かれ、トランシーバーなどに変更するといった処理も、CGで加えられています。

また「銃はやめて。相手は子供なのよ」というセリフも削除されました。


「物語の本質は何も変わっていない。みんなの知っているE.T.そのもの(スピルバーグ日本テレビ:ザ・ワイド」)」

それなら何故、オリジナルの再公開ではいけなかったのか──?
ショットガンを無線機に置き換えた場面のひとつは、予告編でも使われました。

スピルバーグその人は、「子供たちを傷つけてしまうような武器を警官が持っていることが耐えられなかった」と語っています。



その警官が“子供たちを撃ってしまう”可能性はあったのか──?

こういう考え方自体、警察官という職務や、警官個人の人格をないがしろにしすぎだと思います。

宇宙服のような防護服を着た科学者たちが、エリオットの家にやってきたのも、警官が出動して道路を封鎖したのも、子供たちを未知の脅威……たとえばバイオハザードかもしれない地球外生物と、その危険性から彼らを守るためではなかったのでしょうか。

E.T.を子供たちから取り上げようとする“悪者”として彼等が“描写”されるのは、子供たちの視線で描かれるストーリーであることによる必然です。
そして、E.T.は大人たちのそんな取り越し苦労とは無縁の存在であるからこそ、その対立構造が意味を持ちます。

地球外生物と出会った時、あの子供たちのような無垢なスタンスでありたい──そのメッセージはオリジナルでも充分に伝わってきました。

しかし、製作者その人が、警官を子供たちと対立する存在であるかのように捉えているのであれば、疑問に感じます。


ごくありきたりの鉢植えの植物ですら、国境を越えるときには検疫が必要です。
ましてや重大なバイオハザードかもしれない地球外生物に対し、関係当局が職務を果たそうとするのは、当然のことでしょう。
しかし、スピルバーグは、警官のショットガンは“子供たちを傷つけるかもしれない”と言うのです。

子供たちを守るための銃が、逆に彼らと傷つけてしまう可能性──それはもちろんあります。
しかし、それは確率論、数学の話であって、物事の本質ではありません。
まして作り手であるスピルバーグその人は、この物語の造物主、神として、その“可能性”をコントロールできる立場のはずです。

子供たちの純粋性を、メッセージとして歌い上げることに異論はありません。
しかし、作り手が子供たちに過剰に感情移入してしまうのは、贔屓の引き倒しでしょう。



E.T.が着ぐるみだったとしても、レールの上を動く赤いライトだったとしても、あのときの気持ちはきっとかわらない……。
だから、ニュープリント再公開なら素直に喜んだでしょう。

でも、再公開と、付加価値によるビジネス。
そして、PC的に変更された表現には、疑問を感じました。

オリジナルには★4つ。
今回の新版には★ひとつの評価です。


DVD「E.T. コレクターズ・エディション」

ジャケットにも使われているこの名場面も、CGの手が入ったシーンの一つ。
服が風になびいていることに注目。

このコレクターズ・エディションには、新バージョンだけでなく、オリジナル版のディスクも含まれている。

味心三船(北海道・美唄)★★★☆☆

casa_kyojin2011-10-27


三船、いつのまにか引っ越して、こんなにキレイになってたんだなあ。

味は……昔よりよくなったような気がする。肉も大きくなったし。
でも、焼き鳥も、店の中も、客も、炭火でいぶされて真っ黒のあの感じは、もう無いんだよね。

銀座街の入り口の角で、炭火の煙でモクモクしてるのが三船だったのは遠い昔。
そりゃそうだ、僕がイメージしてるのは、ここに移転する前どころか、雑居ビルに入る前の三船だもの。
小学校の前の緑のおじさんが焼き鳥焼いてた頃の三船だ。
そのころ、美唄で焼き鳥といえば、とにかく「三船」だった印象がある。

真っ赤な炭火の横では、ブタのちょろりが日本酒を燗付けしていた。
そんなのが、子供心にもなんだか美味しそうに見えたのを思い出す。


新川のドブ臭い臭い。
映画館の日活ロマンポルノの立て看板。

──そんなのにドキドキしてた裏通りが、通学路だった頃の昔話。

美唄も変わったなあ」
──ってのは、30年くらい前、コア美唄ができた頃のラジオスポットCMのコピー。
なつかしいというかなんというか、隔日、昔日の感がひしひしと……。

あずみ2 Death or Love ★☆☆☆☆

casa_kyojin2011-10-21


前作「あずみ」が予算が豊富な「ゼイラム2」なら、今度は同じ無駄遣いをした「くノ一忍法帖」か。

北村龍平は自分の作風を出し切って、それでも結果を出せなかったけれど、金子修介は彼自身の仕事ができていたかどうかもあやしい。



まず、正直なところを告白すると、僕はこの作品を「弔い合戦」だと思って、大きな期待をしていた。
つまり、金子が北村に対して「ゴジラの仇をあずみで討つ」ことを期待していたのだ。

北村龍平は、前作の「あずみ」で原作の漫画も、日本の時代劇的作法もズタズタ、グズグズにしたミュータントを世に出した。
その続編を、金子修介が撮る!

金子ゴジラに対する低評価には、もっともな部分があるにしても、ゴジラの末期の水を北村龍平のような無頼漢にとられてしまったことは、日本のトクサツを愛する人間の一人として、痛恨の出来事だと思っていた。

舞台が一枚下がってしまうにしても、その北村龍平金子修介その人が天誅を下すチャンス!……と、外野で一人勝手に盛り上がってしまっていたのだ。


冒頭、断崖絶壁に追いつめられたあずみが刀を抜く。

そして彼女はこのシーンでだけ、前作風(つまり「ブレイド」風というか支那風)の刀の取り回しをしてみせるが、その後は一切こんなふざけたマネはしない。
もうこれだけで「仇討ち」の期待は高まる!

しかし、その野放図な期待と盛り上がりが、ものの見事に打ち砕かれてしまうのに長い時間はいらなかった。

たしかに、前作は「あずみ」でもなければ「時代劇」でもなかった。
しかし、「北村龍平劇場」としての個性は充分に持っていた(そして僕はそれが大嫌いだ)

ところが、この続編は「な゛ん゛な゛ん゛だごれ゛ばー(劇中のセリフから)」といった正体不明の作品にしかなっていなかったのだから話にならない。


ただただダラダラと続く冗漫なストーリーに、まず退屈する。
殺陣のスピードも、セットの規模も、前作より格が落ちた。

上戸彩は前作同様に健気にがんばってはいるものの、例えば栗山千明にしたって、ダメダメくの一をニコニコ演じている間は居心地が悪そうでしかたない。
内通者だとわかるまでのシークエンスが無駄に長かったか、キャスティング自体の失敗だろう。

平幹二郎も存在感や重厚さとは縁遠い使われ方だったし、高島礼子の極妻セリフも新春かくし芸大会的なお約束。

まぁ二人のカラミにはドキドキしたということにしてもいいけど、あれと彼女の甲冑のデザインのおかげで「高予算"くの一忍法帖"」になっちゃったことを思うと、バツもいいところの大バツだ。

金角、銀角はイマイチキャラが立っていないし、金角役の遠藤憲一は前回のチョイ役の悪役の時とまるで同じ芸風なのが不可解。

適役の土蜘蛛と六波に至っては、メイクや衣装、ギミックも悪趣味の最たるもの。

北村龍平的な悪フザケは確かに子供騙しだったけれど、金子修介がくだらないCGでスプラッターを見せたことを何と言っていいものか……。


そもそも、"Death or Love" とか言っているけれど、"Death" はともかく、"Love" ってなんだ?

大体、金子修介に"Love" なんて期待しちゃいけないことに、誰も気づかなかったのだろうか。

僕自身、贔屓の引き倒しになるほどの金子ファンだったにしても、彼にそういうストーリーや味といったものは全く期待したことはない。
彼が描けるLoveは「卒業旅行 ニホンから来ました」のようなラブコメか、ガメラ藤谷文子の頬にサッと傷がついたり、前田愛の一世一代の名シーン「……熱いよイリス」くらいのものだ。

にしても、金子そのひとらしいシーン、演出が、しびれ薬に倒れたあずみの苦悶の表情くらいにしか無かったとしたら、この映画は金子修介の仕事としてはほとんど価値のないものになってしまう。



たしかに、この映画の製作中に「いろいろあった」というような話も聞こえてくる。金子修介その人にとっては不本意なこともたくさんあったのかもしれない。これまでも、金子修介は一作目のガメラの「いろいろ」で本を一冊書いてしまっているくらいだ(「ガメラ監督日記」)

でも、それが「仕事」というものなのだろうし、そういう「いろいろ」は誰にでも(それこそ北村龍平にだって)あるものだろう。

たまたま平成ガメラでは、その後の二作で意趣返しをできたかもしれないが、この作品では、もやもやがどうにも残ってしまったようだ。

そうした現場でのあれやこれやについては、金子修介自身もブログで、そのへんを匂わせるようなことを書いている。
それにしても、プロデューサーの山本又一郎……ひと騒動あった「ミシマ」にも噛んでる人だけに、いろいろ想像してしまう。

大島渚・前監督協会理事長が、「監督たるもの、自分の映画の悪口を三年間言ってはならない」と仰ってますので。
なんか、『影武者』武田信玄の遺言みたいだな(初日舞台挨拶 2005/03/14)」


とはいえ、「ガメラ金子修介」が「ゴジラの─」になれなかった時点で、僕も贔屓の引き倒しをやめておくべきだったのかもしれない。

彼は、ガメラで成功し、日本特撮、怪獣映画にこの人あり! とはなったものの、それ以前もそれ以降も、一般映画で成功しているとは言い難い。

それに、ゴジラで失敗(ファンの評価はさておき)したことを考えると、彼は「ガメラ金子修介」ではあっても、それ以外の何ものでもないのかもしれない。

本作が、怪獣映画やいわゆる特撮映画に近いところにあった映画だけに、今回の失敗は痛い。
映画監督としての金子修介には、市場的、芸術的評価はもちろん、個人的贔屓度にも黄色信号が点滅してしまった。

しかし、それでもなんでも“次”への期待を捨てきれない。
次こそは、伊藤和典がいなくても、樋口真嗣がいなくても、これが金子修介だ! という痛快な一撃を見せてほしい。心からそう思う。






それにしても栗山千明。なんて笑顔の似合わない女優なんだろう。あらためて惚れ直した。

以前出入りしていた仕事場で、何度か居合わせたことがあったけれど、たしかにローティーンのころからとんでもないクールビューティーだった。
彼女がパーティーション一枚隔てた向こうで打ち合わせをしているだけで、ドキドキして仕事にならなかったことを思い出す。

金子修介への“贔屓の引き倒し”は、最近は別の意味でちょっと落ち着いている。
というのも、twitterでの“少女時代ラヴ”な感じが余りにも強烈で、ついていけなくなったからなんだけど。
ウルトラマンマックス」のころのブログは面白かったんだけどなあ。


■あずみ2 Death or Love

A.I. ★★★☆☆

casa_kyojin2011-10-18


鑑賞する側の前提条件として不可欠なもの、「キリスト教的世界観と照らし合わせる目」がなければ、単なるセンチメンタルかホラーになってしまう可能性も。
日本では“感傷”よりも、多くの“困惑”が向けられてしまうことになったのは、ある意味当然のこと。


2001年宇宙の旅」とも相通じる聖書的世界観。
キューブリックは、現代の神話のストーリーテラーになりたかったのだろうか。

そして今回、作品のベースになっているのは「新約聖書」的世界ではなく、旧約のそれだった。

つまり、アメリカで一般的なプロテスタントよりは、よりカトリック色が濃く、さらにはユダヤ教イスラム教と共通の聖典の価値観ということになる。

というわけで、一般的な日本人の持つ宗教観や世界観、そして、それらとの隔絶、断絶を考えると、多くの観客が抱えることになった「?」の存在は当然だろう。
その結果、“お涙頂戴”的な単純な感傷が向けられることになったとしても、しかたのないことだったのかもしれない。


この旧約世界は、とりわけ「創世記」との類似、相似が見られる。
これは、新しいハードウェアとしての人類、文明に対する、新しいソフトウェアとしての「“新”創世記」といえるのかもしれない。

そこに、ヤーウェはいるのか?

あるいは、スピルバーグ七つの大罪の一つを犯してしまったのではないか?

──本作が「バベルの塔」になっていないことを祈りたい。


スピルバーグが“創造”した世界の果てでは、どんな獣が涙を流しているのだろう。



また、個々のエピソードを個別に取り上げると、映像的な表現の「幼児性」に困惑させられてしまうこともしばしばだった。

例えば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」であればそれがプラスに働く部分は多かったと思う。

しかし、このように壮大な神話的世界に、ロボット解体ショーの中華世界的拷問のドギツサや、オートバイの造形のマンガ的モデファイはそぐわない。


そして、一番「幼児性」が現れていたのは、もしかしたら再三協調される母親の「乳房」の描写かもしれない。

彼の“母親”は、イブニングドレス等々、ひときわ乳房を強調するスタイルで登場する。

それは、母性を求めるデヴィッドの憧れの象徴かとも思ったが、2000年後に復活した母親は(少なくとも)半裸でベッドに横たわっていたのだ。

となると、彼の求めていたものを「母性愛」としたかったのか、もっと俗っぽい概念としての「愛」としたかったのかが、わからなくなってしまう。
もっとはっきりいえば、復活した母親の登場シーンは、ちょっとエロっぽかった。


ともあれ、「作り手の愛情の対象であり、憎悪の対象」という「レプリカとしての矛盾」を、誕生直後に「克服」しなければいけなかった「鉄腕アトム」と比較すると、ロボット三原則から遠く離れたデヴィットの自己崩壊っぷりは、ともすると見苦しいくらいだ。

もっとも、2000年かけてコケの一念岩をも通す……とできたのであれば、その強大な我執は、リスペクトの対象に成りうるのかもしれない。



このように、色々と考えさせられる作品ではあったが、それでもやはり、いきなり遠い未来に時間が飛んでしまうという展開は、やはり“投げっぱなしジャーマン”ではないだろうか(それを豪快だという人もいれば、美意識に欠けるという人もいる)

ともあれ、ほとんどの観客が、ひどく驚かされてしまったことだけは、間違いない。

しかし、そのサプライズが、カタルシスに結びついたかどうかは、どうにも疑問だけれど。


■A.I.

主役の“天才子役”ハーレイ・ジョエル・オスメントくんを最近見ないけど──それもそのはず、18歳になった2006年に、飲酒&違法運転で逮捕。そしてまもなく、マリファナ所持も発覚。
それにより、三年間の保護観察処分になっていたという。

ファーロングくんや、カルキンくんみたいになっちゃったなあ……といったところだけど、未成年のうちから逮捕、って意味では一際早い。

彼らのように、ドリュー・バリモアのように、帰ってきてくれることを祈りたい。